KISS第65号の「結婚制度」に関する異論反論を頂いています。
なので、臨時にアップデートします。
最初にお断りしておきますが、前号でも書いたとおり、僕は、結婚制度に反対しているわけではありません。そもそも結婚するかしないかは、個人の判断によりますから、つまり、個人が選択できるわけですから、制度を悪だとか、必要ないとか、そう言うことを表現したいのではありません。
僕は、犬を飼っています。
ゴールデンレトリーバーと、スタンダードダックスフント。
僕は、これまで、彼らにたくさん助けられてきました。
彼らを思うとき、それだけで僕は、幸せな気持ちになります。
同時に、事故や病気などの心配も頭をよぎります。
つまり、僕なりに、彼らを愛しているというわけです。
ゴールデンを飼い始めてから3年ほどの間、僕は彼に対して一つの不満を持っていました。
彼は、「アイコンタクト」を避けるような目の動きをするからです。
彼がなにやら「ピーピー」と騒ぎ出した時、僕は彼の名前を呼び、彼の目を見ながら「どうしたの?」と聞くわけです。
すると、彼は、すぐに目線をそらしてしまうのです。
何度やっても、同じことの繰り返しでした。
「なんでこいつは、アイコンタクトを嫌がるんだろう???」
そんな彼に対する不満を何年もの間、思っていました。
ハイパーネットの倒産後、2匹の犬と共に実家に戻り、図らずしも多くの時間を手に入れ、僕は家族を慮る余裕が少し生まれました。
彼の行為の本当の意味に気がついたのは、その頃でした。
いつものように「ピーピー」騒ぐ、ゴールデンに「どうしたの?」と聞いたとき、彼はそれまでのように、目線をすぐにそらしました。
それでも僕は、彼の目を見ていました。
すると、彼の目線は、ある一つの方向に固定されていることに気がつきました。
じっと、何かを見つめているのです。
僕は、彼の目線の方向に目をやりました。
そこには、彼らを散歩に連れて行くときに僕が着る衣服があったのです。
「はっ」としました。
もう一度、彼の名前を呼び、アイコンタクトをしながら「どうしたの?」と聞きなおしました。
彼は目線をそらし、じっと「散歩衣服」を凝視しているのです。
気がついたうれしさと同時に、これまでの彼との向き合い方に対する後悔が、それこそ津波のようにやってきました。
僕は、心に余裕が無かったのです。
だから、彼らの面倒を見てはいたものの、彼らの心を慮る余裕が無かったのです。
ショックでした。
それからと言うもの、彼に「どうしたの?」と聞くことが楽しくてたまらなくなったのです。
僕がタバコを吸いだすと、(きっと煙たいのでしょう)「ピーピー」騒ぎます。
「どうしたの?」と聞けば、彼の目は、彼の夕涼み特等席であるベランダへの窓を見つめています。
散歩から帰り、僕が彼らのご飯を忘れたとき、彼の目線は彼の食器に向けられています。
今では、僕の言葉と、彼の目線での会話は、ここでは書ききれないほど多肢に渡ります。
僕は、彼と会話が出来ることに気がついたことを、とても幸せに思っています。
彼の会話手法に、気がつくのがもっと早ければよかったと思います。
が、同時に、今気がついてよかったとも思います。
彼らは、僕が特別な病気になったり、事故にあったりしない限り、僕より先に逝ってしまいます。
そのとき、僕は、相当に悲しむでしょう。
それまで自分を支えてきてくれた彼らが居なくなるわけですから、悲しいに決まっています。
だから、悲しいのは仕方ありません。
しかし、僕は、彼らを失ったときに、少なくとも「後悔」はしたくないのです。
「もっと、遊んであげればよかった。」とか、
「あの時、なぜ彼らの気持ちをつかめなかったのだろう?」とか、
そういう後悔は絶対にしたくないのです。
しつこいようですが、悲しいのは仕方ありませんが、後悔はしたくないのです。
だから、可能な限り、彼らの気持ちを理解したいし、可能な限り家で仕事をすることによって、彼らとの時間を作ろうとするわけです。
いやな事だって、たくさんあります。
雨の日の散歩は、出来れば避けて通りたい億劫なことです。
毎年ワクチン接種や、ノミダニ予防も欠かせません。
ゴールデンは、「股関節形成不全」の手術も行いました。
2週間も病院の窮屈な檻に入れられている彼を毎日見舞いに行くたびに、心痛が走りました。
経済的な支出も多くなります。
仕事を邪魔されることも、日常茶飯事です。
しかし、僕は、健康で元気な彼らと暮らす幸せを失いたくないし、彼らに辛い思いをさせたくないから、僕に出来ることなら、何でもするでしょう。
彼らと僕の間には、当たり前ですが、「血縁関係」はありません。
もちろん、所有者(?)ということで役所への届出はしています。
しかし、「血縁関係」が無いから、家族ではないなどとは思いませんし、
役所に届けを出しているから、仕方なく飼っているわけでもありません。
僕は、彼らと暮らすことを幸せに感じるから、彼らと暮らしているだけのことです。
こんなこと暴露する必要は無いのかもしれませんが、当家の父と母は、僕が3歳のときに、まあいろいろあって離婚しています。
その後、さらにいろいろあって、今は、当家で、時には喧嘩し、時には笑いながら、まあそこそこ楽しそうに「同居」しています。
当家に居る、3人+2匹+(外に居る父の犬)2匹は、それぞれ、血縁があったり無かったり、戸籍上の家族ではなかったりと、まあ言ってみれば、一般的には、「複雑な家族関係」と言うことになるのでしょう。
しかし、僕も含め、当家の「家族」は、その関係がだいぶ長く続いています。
自然災害や事故などがあれば、他の誰よりも優先して、互いに家族を心配し、自分を犠牲にしてでも家族を守るでしょう。
つまり、互いに愛し合っていると思うのです。
この家族には、制度による関係の保証は、一切無いにも関わらず。
頂いた反論には、「道徳的ではない」といった表現がありました。
たとえば、結婚願望を抱いている女性を口説くために、「君と結婚したい」などと、心にも無い言葉を放ち、彼女との関係を迫るとすれば、僕の道徳に反します。
が、僕は、そのようなことをしたことはありません。
また、「かっこ悪いところを見せ合える自堕落な関係も必要だ」と言うような意見もあります。
しかし、「結婚制度」が、自堕落な関係を保証しているわけでもありませんし、結婚していなくても、自堕落な関係は築けるでしょう。
さらに、「健康で自立しているから、そんなことを言っていられるのだ」のような意見もあります。
ならば、自分が困ったときのために、子供を作ったり、家族を持ったりするのでしょうか?
ならば、婚姻関係として行政に保証された関係で無い者を、助けようとは思わないのでしょうか?
つまり、制度上保証されている「人間関係」によって、人は、助けたり助けられたり、愛したり敵対したりするものではないと言いたいのです。
大切な人が居て、その人を愛していて、その人を失いたくなくて、その人と多くの時間を過ごしたいと思う気持ちは、まあ僕の場合、正直、「人一倍強い」のです。
それを現実にするためには、制度の保証を得ることではなく、相手と自分の適切な距離を保つことだと思います。
婚姻届を出すことによって、初めて「恥ずかしい自分」を見せられると言うのであれば、ある種、詐欺ではないでしょうか?
結婚するまでは、自分の良いところだけを見せ、結婚したら「こっちのものだ」と、自堕落になるような目論見の人間とは、それが女性であれ男性であれ、僕はいかなる関係も持ちたくありません。
婚姻関係になることで、一つハッキリしていることがあります。
それは、「別れにくくなる」と言うことです。
よって、それを良く解釈すれば、「忍耐力」が磨かれるかもしれませんし、その忍耐のおかげで、相手を深く知ることが出来る場合があります。
しかし、このような効能は、果たして結婚制度によって「しか」得られないのでしょうか?
僕は、そうは思わないのです。
結婚制度に対する認識は、人それぞれです。
ですから、結婚している人を見るにつけ、「馬鹿だな」などと思っているわけではありませんし、「なんでまた結婚なんかしたんだい?」と、いちいち質問をぶつけるわけでもありません。
ただ、僕には、結婚制度「そのもの」が愛を育むとは、全然思えないというだけです。
少なくとも僕の目には、結婚制度の弊害はよく見えます。
たとえば、結婚して、子供が出来る・・・すると多くの場合、旦那は奥さんを性の対象としての観なくなる傾向があります。そして、もちろん多くの場合、旦那は他の女性に興味を持ち、奥さんをほったらかしにします。いわゆる不倫です。
旦那にとって見れば、「あいつは俺の女房だから大丈夫」と、制度をイイワケに、彼女に対するケアを忘れ、自分だけ、外で遊ぼうとするわけです。
多くの、いわゆる満足していない人妻も、外に関係を求めることになります。
そんな旦那に僕は言ってやりたい。
「他で遊ぶなら、まずは奥さんを満足させてからにしなさい」と。
僕は、制度によって保証された関係によって、自分の態度を変えるような人間にはなりたくないですし、おそらくならないでしょう。
制度が人間関係を保証するのではなく、人間そのもの価値が人間関係を保証するのだと、思っています。
板倉雄一郎 2005年5月10日(の追加エッセイ)




















