板倉雄一郎事務所 Yuichiro ITAKURA OFFICE

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幸せに生きる経済学 第1回「食前食後~所有は幻想である」

ITAKURASTYLE 「所有幻想」 2007年8月1日付より引用・・・

隣の家の柿が、腐って自分の所有する庭に落ちれば、
きっとハッピーな気分ではないでしょう。
腐って落ちた柿は、
自ら所有する大切な不動産を綺麗に保つために、
嫌な思いをしながら片付けるか、
柿木を所有する隣人の管理責任を問い、
隣人に片付けてもらうしかありません。
自ら片付ける行為においても、隣人に管理責任を問う行為においても、
所有における責任を如実にあらわしているといえるでしょう。
所有することのメリットは何か?
と問うと、
「所有している対象を自由にできる事」
と答えが返ってくることが多いのですが、
では、不動産を所有し、ゴミ屋敷にする自由が得られるかといえば、
答えはもちろんNOです。
近隣が迷惑だと感じれば、ゴミ屋敷にする自由は所有者から奪われます。
自ら所有する自動車を路上に放置すれば、駐車違反の切符を切られます。
つまり、所有とは、所有する対象を「ある程度」自由にする権利を得ることができる一方で、所有する対象に対する「責任」を負う必要が生じるということです。
しかし人は、所有することを執拗に求めます。
車が欲しい、家が欲しい、企業が欲しい。
所有する前は、所有のメリット「=ある程度の自由が得られる」を過大にカウントし、一方の所有することの責任についての労力やコストを過小にカウントするからではないでしょうか。
株式投資は、これを如実にあらわしています。
上場企業なら、誰でも「株価さえ支払えば」簡単に(会社法で定めるところの)所有をすることができます。
しかし、
所有する企業が、何かヘマをやらかせば、
株主は「キャピタルロス」という責任を取らされます。
所有する企業が、好業績を発表したとしても、
必ず「キャピタルゲイン」が得られるとは限りません。
誰かさんのように、「企業は株主のものだ!」と叫んだところで、
企業の価値の源泉である「人」を自由にすることなどできるはずもありません。
所有について私達が理解しなければならないことは、
所有による責任は間違いなく生じるが、
所有によるメリットは、
当初期待していた通りであるかどうかは「分からない」ということです。
以上は、所有そのものを否定しているわけではありません。

===

ITAKURASTYLE 「本末転倒」 2008年3月26日付より引用・・・

僕は、自分が所有する自動車を割りと神経質にメンテナンスするほうです。
ボディーの傷、汚れは気になるし、
特に海や雪道に出かけたときは、塩分を洗い流すために直ちに洗車するし、
エンジンや駆動系の不具合に至らないように油脂類の交換はこまめに行うし、
ホイールアライメントが狂えば、コストをかけて調整するし、
ローテーション可能なタイヤ(←ユニディレクションでなく、前後のタイヤサイズが同じ)であれば、こまめにローテーションするし、
室内においても、快適にドライブできるように、こまめに掃除をします。
自動車に関し下手に知識があるものだから、いろんなことが気になり、気になれば直ぐに対応しないと気が済まない、そんな傾向があります。

けど、メンテナンスに神経質になっている自分に気がつくと、

「おい俺、ところでそのメンテナンスは、何のためにやってるんだ?」

と疑問に思うことがあります。

今、フェラーリなどの平べったい車を卒業した僕が主に乗っている車は、キャンプや釣り、そしてオフロード走行を楽しむための「道具」として購入したトヨタランドクルーザー100。
なのに、あまりにも神経質にメンテナンスしていると、オフロード走行における泥んこ遊びを躊躇するようになります。
それじゃ本末転倒ですよね(笑)

道具を道具として快適に利用するためのメンテナンスならばやってしかるべきですし、メンテナンスがろくにできない人はその対象を管理する能力に欠けると思います。
けれど、メンテナンスに神経質になりすぎると、何かの目的のために道具を道具として快適に使うことより、道具を綺麗に保つことそのものが目的化してしまうことがあります。

そんな時、僕はこう思います・・・

「俺って、本末転倒。」

以上は、自動車の扱いを比ゆとして使いましたが、自動車でなくても何でもそうです。

 いきなり過去のエッセイの引用から始まりましたが、これらのエッセイで表現したいこととは、

「所有する前とした後では、所有に対する価値がまるで違う」

ということです。

読者の皆さんも経験があると思いますが、「手に入れる前」は、それが輝くほどすばらしいモノに見えたが、実際に手に入れてみると、わかってはいたものの、

「所有に対する責任の重さ」

に気がつき、所有するために支払った価格が、

「如何に割高であるか」

を思い知らされることがほとんどではないでしょうか。

 

なぜ人は、所有を求めるのか?

この答えの一つは、上記にある「所有する前と後の価値の違い」にあると思います。

たとえば、おなかが空いて焼肉を食べようとするとき、脂っこい肉を欲しがりますが、実際に食べ終わると、「脂っこいねぇ~おなかがもたれる」とか。

たとえば、(所有の比ゆとしては適切ではないと思いますが)、美しく綺麗な女性とのお付き合いは、それが実現するまでは、「なんとしてでも手に入れたい!」と思うことが判断力の欠如を促し、馬鹿馬鹿しいほどの支出を行うわけですが、実際に手に入ると、やたらとカネがかかるわ(笑)、浮気の心配はするわ(笑)、気持ちよくさせ「続けなければ」ならないわ、結構大変なわけですよね。

だから、所有のためのキャッシュアウトを、キャッシュフローの所有に充て、得られたキャッシュフローの範囲で、利用したいモノを「レンタル」すればよいことだと思います。
(まあ、女性をレンタルすることはできませんけれど)

ただし、「趣味」の場合は、話が違います。
「趣味が金儲け」という場合を除き、多くの趣味は継続的なキャッシュアウトを伴います。
この場合も、そのキャッシュアウトが、他のキャッシュフローの所有から生まれるキャッシュフローの範囲であれば、経済的な幸せを感じながら趣味を楽しむことができるのではないでしょうか。

2009年5月13日 板倉雄一郎

PS:
新連載のエッセイは、う~~~ん、なんかイマイチ。
もしかして、既に過去のエッセイで書き綴ったことを再びリメイクして書こうとする僕に、意欲が無いのかもしれません・・・

もしかして、「エロさの経済価値」って感じの連載の方がいいかなぁ・・・

どうおもいますぅ?

PS^2:
佐々木希いいなぁ・・・って、おいおい。書いてることと思っていることが違うじゃん!