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企業と法律 第45回「『持たずに持つ』ということ それと2009年夏の変化」

(毎週木曜日は、パートナーエッセーにお付き合いください。)

私がいま何を持っているのだろうかと思うことがあります。

私が持っているものといえば、私の部屋にあるマイケル・ジャクソンのCDや「カイジ」等の漫画、ノートPCに、薄型TV、ほかには、弁護士資格や大阪弁、妻と両親といった家族、ヨーロッパを旅した体験、友人、歴史や民俗への好奇心も入るかもしれません。

法律上、所有権の意味するとことは、はっきりしています。民法では、所有権とは、物を使用・収益・処分する権利とあります。民法は、人と物、人と人の関係しか考えませんから、このような定義になります。この基準に照らせば、私の所有権の対象となるのは、CD、本、PC、TVくらいになってしまいます。

でも、私は、ほかにも持っているものがあると考えています。皆さんも同じだと思いますが、「持っている」という言葉は、たいてい、好きなときに接して、思うように使用できるということの意味で使っているように思います。

このことについて、作家でもあり、詩人でもあった寺山修司は、次のような指摘をしています。

「「おもうときに使用しても、文句をいわれない」という意味でなら、わたしの所有の範囲はぐんと広まるのであって、・・・・・・とくに「わたしのもの」と主張しなくとも、わたしはさきにあげた以外の数え切れない多くのものを「持って」おり・・・・・・、言葉を変えていえば、かなりの財産家である、ということもできるのです。」
「つまり、わたしがさきにあげたように、自分の「持っているもの」などというのは、たんに自分が管理している、というだけのことであって・・・・・・しかも、そのことだけを比較するならば、誰も博物館の番人ほどにはたくさんのものを「持つ」ことはできないでしょう。けちくさい所有の単位として「家」を考えるくらいなら、「家」などは捨てたほうがよい。死体置場の番人になるくらいなら、町の群集全体を「所有」する方が、はるかに人生に参加する意味がある。
問題は、むしろ、「家」の外にどれだけ多くのものを「持つ」ことができるかによってその人の詩人としての天性が決まるのであり、新しい価値を生み出せるのだ・・・・・・と知ることです。」
(寺山修司著「家出のすすめ」)

「家」とか「詩人」といった部分は、寺山修司独特のものがありますが、それでも、この昭和40年代になされた指摘は、いまなお、というか現代において、さらに、あてはまるように思います。

その意味で、私は、単に物を所有するということを越えて、広い世界の中で、何かのために生きていき、また、その場自体を楽しむ生き方を模索していきたいと思います。

取り留めのない話ですが、最近思ったことを書かせていただきました。

さて、話は変わり、この夏に日本の社会で起きた出来事について触れたいと思います。

この夏の出来事は、いくつかありますが、ここでは、裁判員裁判の実質開始と、選挙と政権交代を取り上げたいと思います。芸能人薬物問題もありますが、もういいかなと思います。職業柄、普通の人よりは、覚せい剤使用者に接してきましたが、ただいえるのは、薬物は、文字通り、人生を破壊するということです。一時の快楽を得るために支払う代償としては、余りに大きいと思います。

さて、裁判員裁判について、述べたいことはいろいろありますが、あまり指摘されていない点を少し。裁判員裁判の結果は、重罰化に傾いているという意見がありますが、私は、必ずしもそうではないと思います。傾向としては、被害者、特に性犯罪被害者等の相対的弱者がいる事案では、より重く、すなわち重罰化の傾向にある一方、被害者のいない若しくは見えにくい事案では、従来どおりか、むしろ軽い方向の結論が出ているように思います。
これは、性犯罪や身体犯(人の身体に危害を加える犯罪)は、いままで刑が軽いという国民感情があったのは従来から指摘されており、これが具現化した一方、被害が見えにくい、覚せい剤の営利目的事案では、このような傾向がないということだと思います。
言い方をかえれば、裁判員裁判を設けた趣旨に合致する方向の結論が出ているともいえます。
私は、裁判員裁判の結果を見ると、重罰化傾向があり、これは妥当ではないというのは、短絡的な議論ではないかと思っています。

次に、選挙と政権交代です。こちらについても、議論しだすときりがありません。
こちらもあまり指摘されていない点での個人的感想となりますが、今回、民主党に風が吹いたといわれているものの、それでも土佐藩や長州藩だった地域では、自民党の方が相当優勢でした。高知県の小選挙区では自民党の全勝です。
近代の日本政府に人材を輩出してきた地域の自負心なのか、それとも容易に流行に流されない風土があるのか、反都会的な血筋があるのかよくわかりませんが、日本中で同じ風が吹いたわけではないということは見逃されがちなのではないかと思います。

政権交代については、政権交代可能性があるということは、国民が澱んだ水を綺麗できる機会を持ちうるようになったという効果を生みますので、国民は、今回、これに期待したのでしょう。
ただ、政権交代可能性があるということは、短期的に受けのよい政策がとられやすいという副作用を生みますので、この副作用を生じさせないような政治家および国民の成熟さも要求されることになります。しばらくは、ゆったりと見守る姿勢も重要だと思います。

2009年9月17日  M.Mori
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