板倉雄一郎事務所 Yuichiro ITAKURA OFFICE

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Deep KISS 最終号「バランス」

「今日の利益か、将来の利益か」

今日の利益に偏れば、今日は過ごせても、明日は無いかもしれません。将来の利益に偏れば、今日を過ごすことが出来なくなり、明日も無くなってしまいます。

個人であれ、企業であれ、国家であれ、今日の利益を追求すれば、その分、将来の利益が失われ、常に将来の利益ばかり考えていれば、いつまで経っても、その時々の利害関係者に対する配分が失われます。

投資活動は、まさに、「今と将来のバランス」の上に成り立ちます。

金融商品に対する投資であれ、知識に対する投資であれ、
投資とは、「現在の確かなキャッシュや時間を差し出す代わりに、将来の何かを得る」という行為ですから、「今差し出す価値」と、それによって「得られる価値」を比べ、

「今の価値」 < 「将来の価値」

の条件が満たされることが必要条件です。
しかし、
いくら、「今の価値」 < 「将来の価値」であったとしても、
今もっている価値のすべてを差し出すわけにも行きません。

大切なのは、今と将来のバランスです。

「優先すべきは、株主か、顧客か、従業員か・・・」

もし、株主が、「企業は株主のものだ!」と主張し、
事業用不動産を売却したり、
研究開発や事業拡大のための投資を渋ったりして、
その結果増えた「足元のキャッシュ」を、
無理やり配当などの手段で、現金による株主への還元を実施すれば、
「一時的な支配株主」にとっては、うれしいことかもしれません。

しかし、上記の「投資」とは真逆に、
「一時的なキャッシュを手に入れる代わりに、
 将来得られるキャッシュフローを失う」
わけです。

当該企業の実態が、

「解散価値」 > 「事業価値」

であるとするならば、その経営者は無能だと思います。

そのような状態が続くのであれば、
(株主の立場に立てば)事業を解散し、
「今のキャッシュを手に入れる代わりに将来を捨てる」
という選択も合理的です。

しかし、以上の条件を満たさないまま、
株主の「絶対的な権限」を、乱暴に使ってしまえば、
企業活動は成り立たなく成ってしまいます。

企業に関わる、どの利害関係者に対する配分を優先すべきか。
これもまた、「バランス」が重要ということになります。
いずれかの利害関係者に偏った配分は合理的ではありません。

「規制緩和か、規制作りか」

「規制緩和」という言葉は、それ自体本質を表していません。
現実には、「規制変更」です。

多くの場合、現実社会では、ある規制を捨てる代わりに、
新たな規制を必要とします。

証券取引の自由度が増せば、
一方でインサイダー取引などの規制を厳しくする必要があります。

企業買収の自由度が増せば、
一方でTOB(=株式公開買い付け)などの規制が必要になります。

社会は常に、規制変更を続けています。
その時代背景に最適化された規制に変更を続けてゆきます。

規制がガチガチな世の中が良いわけでもなければ、
まるで規制が無い世の中が良いわけでもありません。

これも時代背景にあわせた「バランス」が大切です。

資金調達における「D/E比率」においても、
僕が使う時間の「個別対応とブロードキャスト対応の比率」においても、資産ポートフォリオの「現金、株式、債券、不動産、保険の比率」においても、
「体力」についても、
「食事」についても、
「恋愛」についても、
「子供に接する時間と、自分の時間」についても、
「仕事と遊び」についても、
すべて私たちの社会は、最適な「バランス」を求めています。

「何に根拠にした最適なバランスが必要なのか?」

結論から書けば、「継続性」です。
だって、「明日、世界が終わる」となれば、
今日の思いつく限りの贅沢も、まるで不毛ですからね。

しかし、この「継続性」とは、ややこしい言葉で、
「誰にとっての継続性なのか」という視点抜きに継続性は定義できません。

たとえば・・・

ある投資家が、「自分だけの継続性」の立場を持てば、
投資対象の企業の継続性を軽視することもありえます。

極端な話、その企業を解散させ、投資家の利益とすることもできます。企業は破壊されますが、この投資家は自身の利益を獲得できます。

この投資家は、獲得した利益を基に、次なる「破壊対象」の企業を選び、同じように、「投資家自身の継続性」のために、企業を破壊し続けることも、「中期的」には可能です。

しかし、このような行為を継続すれば、そのうち、「破壊対象の企業」さえなくなってしまいますし、その前に、何らかの「規制」が作られ、活動に制限が加えられるでしょう。

結果、この投資家は、一時の利益と引き換えに、自分自身の活動の継続性を失い、さらに社会からの信頼を失います。

では、「企業」という単位ではどうでしょう。

支配的な商品を提供している企業・・・
たとえば、マイクロソフトが、
同社の「直接的な」利害関係者「だけ」の利益を考え、
ある日突然、
「WindowsOSの販売価格を2倍にします!」
という戦略をとったらどうなるでしょうか。

これまでの利用者は、そのシェアに伏し、仕方なく受け入れるでしょうか。

きっと、一時的にはマイクロソフトの収益は拡大すると思いますが、
リナクスなどへの乗換えが加速し、いずれそのシェアは失われてしまうでしょう。

結果として、マイクロソフトの継続性は失われ、
企業価値は破壊され、同社の利害関係者も、
「一時的な利益と引き換えに、継続性を失う」でしょう。
そもそもその前に、アンチトラスト法によって、そんな戦略は実現不能でしょう。

国家の場合ならどうでしょうか。
基本は同じです。

たとえば・・・

北米がモノをたくさん買ってくれるからと、安いモノをドンドン輸出し、一方で北米から何も買わなければ(←そんなことは現実的ではないですが)、いずれドル紙幣の価値は弱まり、モノを売って得たドル紙幣では、モノを生産するコストに見合わなくなります。

結果、為替が「ドル安」になり、北米に売るモノのドルベースの価格を上昇させなければならなくなります。

結果として、モノは北米では売れなくなってしまい、モノを売っている者の継続性も失われてしまいます。(そうやって市場を食いつぶし、あたらな市場を捜し求めるのが、資本主義の現実的な姿だ、と言ってしまえばそれまでですが、今のところそれに代わる継続性の確保できるシステムが存在しないのも現実です。)

つまり、
我々は「継続性に基準を置いた最適なバランス」によって、
かろうしじて、社会を維持しているということであり、
継続性を考えるとき、「誰にとっての継続性なのか」という、
「自分のグループ」をどこまで拡大できるかが、
我々自身が我々の社会を継続できる「知恵」なのだと思います。

「どこまでが自分のグループなのか」

この問題は、そう簡単にケリがつくようなものではありません。
だからこそ、戦争や紛争が耐えないわけです。

ジョンナッシュの言葉・・・

「Adam Smith said the best outcome for the group comes from everyone trying to do what's best for himself.
Incorrect.
The best outcome results from everyone trying to do what's best for himself and the group.」

を思い出すたびに、

「では、どこまでを自分のグループとして考えるべきなのか」

という迷宮に入り込んでしまいます。

自分のグループとは、
自分自身なのか、家族なのか、地域なのか、友人なのか、
仕事上の利害関係者なのか、国家全体なのか、世界なのか、
それとも自然環境を含めた地球全体なのか・・・

継続性のタイムスケールとは、

自分の寿命なのか、企業の寿命なのか、遺伝子の継続なのか・・・

以上の命題の上に初めて成り立つ「バランス」とは、
言葉こそカンタンでも、その根拠を探ることは、極めて難しいことです。
しかし、これらを常に考えることが、
事業を行うにしても、投資を行うにしても、普段の生活においても、
その人の社会における価値を左右する重要なテーマだと思います。
生き方の「哲学」と言っても過言ではないでしょう。

僕は、日々の生活や仕事を通じて、
「自分は社会活動の恩恵を受けて生きている」と痛感します。

たかが自動車で移動するだけでも、
燃料としてガソリンを消費しますし、
そのガソリンは、様々な人の手によって作られます。

車そのものについても、むちゃくちゃ多くの人の手によって作られます。
食事をするにしても、医療を受けるにしても、
こうして文章を多くの方にとどけるにしても、
すべて社会の活動の上に成り立っています。

そして、「ただ生きているだけ」でも、我々は自然を破壊しています。

上記の難問の解決はきわめて難しいで事ですが、
私たち個々人は、社会の一部であることを意識することが、
その難問の答えに近づくことが出来る大切な思考だと思います。

「社会に対する価値提供」
どこまでを「社会」と認識するのかは、ただ漠然としていても、
自分が社会から恩恵を受け生きていることを認識すれば、
社会の役に立つことに人生の時間を使いたい、
と思える、と思うのです。

「答えがどうせ出ないから、考えない。」
確かに、バランスを考える上で、明確で絶対的な前提など、
ずっと得られないでしょう。

だからといって、考えることを放棄すべきでは無いと思うのです。
なぜなら、我々は、
最適なバランスを考え行動することを積み上げることによって、
今の繁栄を手に入れてきたからです。

すべての人が、「自分だけの利益」を追求した結果として、
現在の社会が機能しているわけではないはずです。

「自分のためか、社会のためか」

これは、明らかに愚問です。
自分は、社会の一部であり、社会は個々人のためにあるからです。

最後に、「理想か現実か」について・・・

僕の考え方は、多くの場合「そりゃ理想論だよ」と指摘されます。
その通りだと思います。
しかし、僕は現実社会で生活をし、それなりの収益を得ています。
まるで理想論だけで活動しているわけではありません。

まるで理想が無いことが、未来を創るのでもなく、
まるで現実性がなければ、未来にたどり着くまでに、
その活動は終わってしまいます。

理想と現実、この二つの間にも、最適なバランスが求められます。
少なくとも僕は、自分と社会の未来における理想がなければ、
現実的な活動を継続することが出来ません。

今日もまた一歩、現実を楽しみながら、理想に近づければ、
それで十分だと思います。

最も重大な「社会に対する裏切り」は、
「答えを他人に求める行為」から始まるのだと思います。
なぜなら、「自ら考える事」が、
生きて社会と関わる最も重要な姿勢だと思うからです。
最適バランスは、その人それぞれの価値観に依存します。
その人の価値観と社会全体の価値観が一致するために、
我々は、自己の見識を、「死ぬまで」、広め、深めることに義務がある、
と僕は思います。

2006年7月19日 板倉雄一郎

PS:
DeepKISSは、今回でおしまいです。
夏休み明けには、新たなテーマで、エッセーを始めようと思います。
(おそらく、「基本、基礎」に重点を置いた内容になると思います。)
が、先にお断りしているように、更新頻度は少なくなります。
社会の一員として、事業という現実的な手段に、
僕自身の時間配分を増やしたバランスを実現したいからです。

これまで僕の文章に何らかの価値を感じていただいた
たくさんの読者の方々に、この場を借りてお礼を申し上げます。
皆様のアクセスのおかげで、
「僕の文章にもそれなりの価値があるんだな」と思うことができ、
活動を継続することが出来ました。
本当にありがとうございました。
そして、(夏休みを挟みますが)、今後ともよろしくお願いいたします。

現在の活動を打ち切るのではありません。
何度も書いているように、
僕自身の時間配分を多少変更するということです。
セミナーについても、形態を変更することはあれ、
需要がある限り、ライフワークとして、継続します。
以上、ご理解いただければ、幸いです。

PS^2:
「夏休み」を連発して、「小学生じゃあるまいし」(笑)。
夏休みの間、是非、「過去のエッセー」を読み返してみてください。

正直、クレームを覚悟で書きますが、
合宿セミナーや、オープンセミナーを通じて、
「多くの方は、文意を理解しきれてい無い」と感じます。
もちろんその原因が、読者の側にばかりあるとは思っていません。
僕自身の文章力の限界もあると思います。

しかし、「その無料の文章から、どれほどの価値を手に入れるか」は、読者の取り組み方に依存します。

どれほど著者が神経を使ったとしても、受け手の努力なしにコミュニケーションや知識の伝達は完成しません。

是非、過去のエッセーを読み返し、
皆様が得られる限りの価値を、「搾取」してください(笑)
もちろん、皆様の将来のために。

すべてを真に受ける必要はありません。
むしろ、僕の主張を、皆さんの価値観に照らし合わせ、
皆さん自身の理解を得ていただければ、それで十分だと思います。





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