板倉雄一郎事務所 Yuichiro ITAKURA OFFICE

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Deep KISS 第84号「循環関係」

聞くところによると、トヨタ自動車の従業員は、トヨタ自動車の取引先、つまり部品を納品する企業や運送などのサービスを提供する企業からの「接待」を一切受けないらしい。

この社風に驚く人が居るが、当然と言えば当然です。

なぜなら、「接待にかかるコスト」は、いずれトヨタに納品されるモノやサービスの価格に上乗せされ、結果的にトヨタ自らが負担することになるからです。

日産自動車が、財務の建て直しにあたっている際、ある財務の人間が、「取引先への支払いを延ばしましょう」とマヌケな提案をしたらしい。

納品から支払いまでの期間(=支払いサイト)を延ばせば、表面的かつ一時的には、必要運転資金が減少し、現預金残高は増える。

この意見に対して、カルロス・ゴーンは、「んなことするな!」と拒否した。

これもまた当然です。

なぜなら、「取引先に対する支払いサイトを延ばす」ということは、日産自動車の資金調達(=この場合運転資金)を取引先に押し付けることと同義であり、取引先はその分の資金を調達しなければならず、資金調達に伴う「資本コスト」が発生、そのコストは、上記(トヨタの例)と同じように、いずれ日産に納品されるモノやサービスの価格に上乗せされ、結果的に日産自らが負担することになるからです。

(ちなみに、日産自動車より、日産自動車の取引先の資本調達コストの方が多くの場合高いですから、取引先に運転資金を負担させれば、両社連結のコストは増大します。利益を維持するためには、そのコストを商品価格に転嫁しなければなりませんから、日産自動車の商品価格が上昇し、価格競争力が低下し、財務健全化のための手段が裏目に出ます)

ちなみに、前者のトヨタの例の場合、接待用の「飲食店」などへの外部流出を防ぐ合理的な行為であり、後者の日産の例の場合、資金調達先の金融機関への外部流出を防ぐ合理的な行為です。

「何かを得れば、一方で何かを失う」ということであり、他人に何かを押し付ければ、回りまわって自分がそれを負担するハメになる、ということでもあります。

経済は、常に「循環」しています。

よって、(搾取でもしない限り)「一人勝ち」もないわけです。

次、雑誌メディアとスポンサーと読者の関係について書いてみましょう。

「なお、以下の文章は、昨日削除したエッセイに関連した雑誌社のことを批判する目的のために書くのではなく、あくまで一般論として、読者の方々への知識の価値提供を目的として書くことをお断りしておきます。」って書いておきますね。

多くの雑誌メディアは、その収入を広告スポンサーからの広告料と読者からの雑誌代に依存しています。
(もちろん、「R25」のように収入源を広告スポンサーからの広告料だけにしている場合もあります)

メディアが広告料を稼ぐことが出来るのは、そのメディアを見る読者が居るからです。

読者がそのメディアに雑誌代を支払うのは、そこに「価値ある記事」があるからです。

なぜ価値ある記事があるのかと言えば、その雑誌の取材陣や編集者という「人」が努力するからです。

彼らの努力の結果、価値ある記事が生み出され、多くの読者が買ってくれるのです。

多くの読者が買ってくれるからこそ、その雑誌に「広告を載せる価値」が生まれ、広告スポンサーは「告知力」を金で買うことが出来るわけです。

以上は、主に「価値」の側面から記述しました。

では、「金」の側面から同じ事を書いて見ましょう・・・。

メディアが価値ある記事を書き、雑誌として発行できるのは、スポンサーからの広告料収入があるからです。

スポンサーからの広告料収入があるからこそ、その分雑誌代が安くなり、読者は内容に対して(=かかったコストに対して)安い価格で記事を読むことが出来ます。
と、こうなるわけです。

どちらが正しいとかの話しではなく、どちらも同じことの別な側面に過ぎません。
しかし、後者の「金」の側面の場合、なんとなく「スポンサーは偉いんだな」という感覚になりますし、前者の「価値」の側面からの場合、なんとなく「読者は偉いんだな」という感覚になります。

しかし、スポンサーが偉いはずの「金」の側面をもっと追求すれば、スポンサーがメディアに出す「金」の源泉は、メディアの広告や記事を見てスポンサーの商品を買う「読者の財布」です。

また、読者が偉いはずの「価値」の側面をもっと追求すれば、読者が「価値ある商品」を金を払うことによって手に入れられるのは、スポンサー企業の「人」が、商品という価値を生み出しているから、となります。

つまり、
誰が偉くて、誰が偉くないということではなく、
金を払う側が偉いとか、価値を提供する側が偉いとかでもなく、
メディアとは、
スポンサー企業の「人」と、
メディアで働く「人」と、
読者(=後の消費者)という「人」によって形成される、
「情報と経済価値の交換の仕組み」
というわけです。

この事実に着目すれば、
「気に入らない記事にいちゃもんを付けるスポンサー」や、
「スポンサーの意向を受け、記事を手直しする記者」が、もし居たとすれば、
一時の収益を得ることの引き換えに、
メディアとしての価値を破壊することになります。

「ちょうちん記事」ばかりを書いていれば、一時のスポンサーからの収入は確保できても、いずれ読者が離れてゆきます。

読者が離れてゆけば、発行部数が低下し、広告料収入も減少してしまいます。

同時に、スポンサーの商品も、後の消費者によって「言ってることと違うじゃねぇかよ!」と敬遠されることになります。

表現すべきは、「けなす記事」でもなければ、「ちょうちん記事」でもなく、「事実」であるべきです。それが最も合理的です。

(そもそも「商品」に自信があるなら、多少の批判に対し、いちいちいちゃもんをつけたりしないと思いますよね。「図星」で痛い所を突かれたとしたら、気にはなるでしょうが、その場合は、出版社や記者に文句をぶつけるのではなく、自らにその原因を探るべきでしょう)

つまり、
立場の優位性を頼りに、何かを強要したり、
立場の劣勢に怯え、自分を失ってしまえば、
その行いは「回りまわって自分のところに返ってくる」ということです。
(相手に強要したことが、自分に返ってくる前に、高値売却でサイナラの「有名ファンド」の場合には、関係ないかもしれませんが(笑))

自らの経済的価値を高めるためには、
他人に何かを押し付けたり、他人から奪ったりするのではなく、
自ら価値ある何かを「創造」するしかないのです。

その結果得られる何かが、その人の価値の現れです。
得られる何か(それは金の場合も、名誉の場合も、楽しい時間の場合もありますが)に不満があるとすれば、それは自分に対する不満です。
間違っても、「社会がおかしい」のではありません。

2006年6月9日 板倉雄一郎





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