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KISS 第13号 「ネットとは?」

一時期、ネットの出現による業務効率アップという側面を捉えて、「産業革命の再来」と表現する方がたくさん居ました。

僕に言わせれば、本質を捉えていない意見です。

確かに、ネットによって業務効率はアップしたでしょう。
しかし、ある事象の一局面が、他の何かに似ているからという単純な理由で、それとするのは稚拙過ぎます。
それなら、自動車とキャスターはどちらも車輪がついているから、「自動車は、キャスター以来の発明だ」などと言っていることと同じです。
大切なのは、「そのモノの出現によって、社会にどのような変化がもたらされたのか」という視点です。

結論から書きましょう・・・
もし、ネットの出現と社会への浸透が、社会にもたらす影響について、過去の何かに似ているとすれば、それは、産業革命などではなく、グーデンベルグの活版印刷の発明による革命です。

活版印刷は、「聖書の印刷」を目的として、グーデンベルグによって発明されました。
もちろん、活版印刷は、当初の目的であるところの聖書の増刷に貢献したわけですが、それ以外にも社会に大きなインパクトを与えました。

「そうか! カンタンに本を印刷できるなら、僕も何か書いてみよう!」

という人が現れたのです。


結果、印刷されるのは、聖書にとどまることなく、様々な書籍が発表されることになったというわけです。

この現象は、現在の「ブログ」による情報発信者の増加に似ていませんか?
僕は、以上のような考えを1995年時点で持っていたので、ブログの出現を、1995年当時に、正確に予言していました。
(詳しくは「社長失格」を参照ください。)

ネットの出現以前、個人の表現は、その手段が限られていました。
作家でもない限り、個人の表現を広く一般に知らしめる手段は、せいぜい専門雑誌の「読者欄」がいいところで、ついでに、偶然出会うTV中継の後ろで「ガッツポーズ」をするぐらいしかなかったわけです。
ところが、ネットの出現によって、個人の表現は、その環境さえ整っていれば、世界中のあらゆるところから表現することが出来るようになり、同時に、世界中のあらゆるところから、個人の表現にアクセスすることができるようになったわけです。
ブログの出現それ自体は、簡易WEB構築という「機能」に過ぎません。
ですが、ネットの社会に与える本質的なインパクトを、最も簡単な手法で実現したという意味で、柔道のような技ですね。
普及して当然です。

ネットの出現によって、それ以前では、「経済力」や、「知名度」が表現の範囲を限定したいたのに対して、現在では、経済力にほぼ無縁に、個人の表現が可能になったのです。
知名度は、その方の提供する価値に依存するようになりました。

以上から、様々な示唆が得られますが、僕は、こう思うのです・・・・(ちょっと発展的ですが)

「ネットは、それ自体が、誰かによる支配を拒んでいる。」

つまり、誰かによって、支配されてしまえば、それはもうネットではなくなってしまうというわけです。
これまで、たくさんの企業や企業家が、ネットの支配に奔走しました。
しかし、誰一人として、それを独り占めすることに成功していません。
誰かがネット上の独占的地位を築きそうになると、すぐさま、他の誰かによって、逆襲されてきました。
今後も、争奪戦は、愚か者が居る限り、続くでしょう。
そして、金と情報が飛び交い、「兵どもが夢の跡」。

僕は最近、昔と違い、メディアの取材に応じなくなりました。
「目立つと損をする」などという、臆病者になったわけではありません。
臆病どころか、このWEBのおかげで、メディアに出るときには遠慮していた発言を、どんどんストレートに表現できるようになったとさえ思います。
もう、僕にとって、大手メディアは、さほど重要ではなくなったのです。

価値ある情報を提供していれば、価値ある人々が訪問してくれる。
継続的に価値を提供していれば、どんどん訪問してくれる人々が増えてくる。
だからと言って「数」を追う必要も無い。

ネットは、皆がそれぞれの表現のために使うインフラに過ぎません。
価値を生み出し提供できるのは、人間そのものであり、ネットそれ自体ではないのです。

2005年2月24日 板倉雄一郎 





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