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KISS 第97号「陰と陽」

世の中、なんでも「陰と陽」があります。
たとえば、分数の分子と分母も、僕にはそのように見えます。
物事を評価するとき、この「両方」を見なければ、全うな評価は出来ないはずです。
「分母と分子」の分数に限らず、「プラスとマイナス」、「調達と運用」、「ある人の悪い効用と良い効用」、「インとアウト」すべて「陰と陽」その両方を評価する必要があるのです。

投下資本利益率(=ROIC)は、「その利益を得るためになんぼ突っ込んだの?」ということを表します。
何度も書いていることですが、「3000万円のキャピタルゲインを得た人」を評価するには、
1、 どれほどの期間で、
2、 どれほどの元手で、
3、 どれほどの資本コストで、
4、 インフレ率やTOPIXの変化に対して相対的に、
が無ければ、評価のしようがありません。
仮に1億円の元手で、かつ投資期間が1年であれば、その方のROICは30%です。
しかし、サラ金から30%の資本コストで資金を調達していれば、儲けはほぼゼロです。
仮に、その期間のTOPIXの成長率が30%であれば、全然すごくないのです。
たとえ、以上の評価をしたうえで、「すごい!」と成ったとしても、それが社会に対する価値提供を伴っていない取引が占めていれば、やはり「すごくない」と僕は思うのです。

日本人は、経常利益が大好きです(笑)
つまり、P/L(=損益計算書)を読むことは、得意です。
なぜなら、P/Lは、足し算と引き算(これはどちらも同じメカニズムですが)だからです。
しかし、その利益を得るために、どれほどの資本を投入したのかということを表すB/S(=貸借対照表)とあわせて考えると、その概念が分数になります。
いくら、利益の絶対額が2倍になっても、その裏で、投下資本が2倍になっていれば、少なくとも一株辺りの利益(=EPS)に変動は無いのです。(有利子負債のレバレッジを考慮する必要はありますが)

角川春樹氏の功績について、今(2005年7月6日)のテレビ番組「ワイドスクランブル」(テレビ朝日)でやっています。
確かに、彼の開発した「メディアミックス」という手法は、現時点で常識となるぐらい優れたビジネスモデルです。
しかし、一方で「コカインの密輸」に貢献していたわけです。
まさに、陰と陽、社会に与える「良い影響」と「悪い影響」を同時に考えなければ人物の評価は不能です。
(彼は、その罪を投獄という手段で償いました)

ライブドア堀江君による「マヌケな経営者の襟を正す」という、結果的な「陽」の「部分」を僕は否定しません。
しかし、一方で自社の株主の毀損の上に成り立ったMSCBによる資金調達と、その手法が上場企業に蔓延してしまった(=これは事実です)ことによる「陰」の部分も同時に評価しなければなりません。

人間の尊さとは、自らの行為が社会に与える影響の「陰と陽」を予め考察できることによって、生まれるのです。
(詳しくは、KISS第95号「人(ヒト)」を参照ください。)

「東大合格者100名!」と謡っていたからといって、その塾の受講生が100人なら、「東大合格率100%」で、確かにすごいですが、もし、10万人なら、合格率はわずかに1%です。

「宝くじの一等当選本数300本!」といったところで、一体何枚の宝くじを発行するのかがわからなければ、この300本!は、評価のしようがありません。

他人のことばかりではなんですので、自分のことも書きますが・・・
ハイパーネットのステークホルダーに与えた損害という「陰」の部分と、
その経験によって得られた知識を、社会に還元する「陽」の部分を同時に評価しなければなりません。

以上の「陰と陽」の比較は、人それぞれの価値観や、立場によって様々です。
(たとえば、僕がいくら社会に対する価値提供を行っても、僕の行為によって直接損害を被った方は、おそらく僕に対して良い評価はしないでしょう。)
しかし、この「両面」を見ずして、人や企業を評価するのは愚かなことだと思うのです。

どんな人であれ、どんな企業であれ、その存在のすべてが、「陽」または「陰」のどちらかだけであることなど、おそらく無いと思うのです。
存在とは、常に「陰と陽」の両方を内包しています。
その両方を見た上での評価でなければ、ほとんど意味が無いのです。

人が生きる以上、菜食主義者であったとしても、食べるために他の「生物」を絶命させる必要があるのです。
この「陰」の部分を越えた、「陽」を持っているかどうかが、社会に対する価値提供となりうるのです。

僕が、企業価値評価を説明する上で、ROIC?WACC=Spreadをことさら強調するのは、以上のような理由からです。
同じスプレッドなら、ROIC、WACCとも低い方が、価値創造は容易なのです。
可能な限り、「陰」の部分を減らすことが大切なのです。

本日のエッセイは、ここから先が本題です・・・

たとえば・・・
「稼ぐ方法より、如何に使うかが大切だ!」と主張する人が居ます。
このように、「稼ぐとき」と「使うとき」を分けて考えるのは、なぜでしょうか?
僕は、このような分離に疑問を抱かないのは、無意識のうちに「金」に対する執着があるからなのだと思うのです。

「金」だけに注目すれば、確かに、「金が入るとき=稼ぐとき」、「金が出て行くとき=使うとき」と分類が出来ます。
しかし、「金が出て行くとき」は、それと同等程度の商品なりの経済価値を受け取っているはずですし、「金が入ってくるとき」は、それと同等程度の個人の経済的価値(=たとえば労働力)を提供しているわけです。
つまり、「稼ぐとき」と「使うとき」は、
どちらの場合も、単なる「経済価値の交換」に過ぎず、
どちらの場合も、「社会に対する影響」があり、
どちらの場合も、「陰と陽」があるのです。
「金」ばかり見ているから、「稼ぐとき」と「使うとき」という行為の分類が発生するのです。

だから、社会に対する価値提供を伴わない作業の結果生まれたお金を寄付するというような行為を、たとえて、塩を入れすぎた料理に、慌てて砂糖を入れても、味は元に戻らないと、常々主張しているわけです。

金の側面から見た行為の分類であるところの、「稼ぐとき」と「使うとき」のどちらの行為においても、常に社会に対する価値提供を意識すべきなのです。

人間の「金欲」の部分だけを取り出してしまえば、どうなるかについて、詳しくは、KISS第92号「体のよい総会屋」を参照ください。

資本主義というシステムは、問題だらけです。
しかし、人間は、そもそも完璧なシステムなど作れるわけが無いのです。
問題は、そのシステムを理解し、適切な「使い方」を自分で考えるしかないと思うのです。
たとえば自動車だって、運転者がイカレていたら、凶器にしかならないでしょ。
使い方を考えるためには、そのシステムに対する理解(=取扱説明書)を勉強するしかないのです。

資本主義に対する理解とは、すなわち「価値と価格」の相互の関係を見抜くことなのです。
これが最も基本であり、通貨が生まれた根源でもあるのです。
たとえば、僕は、短期の利ざや狙いだけを目的にした投機家の批判を過去に散々書いてきました。
それは、彼らが「価格変動」にのみ興味を持ち、そもそもその価格が発生する根源であるところの「企業価値」について、まったく意識が及んでいないと察したからなのです。

短期投機家に限らず、資本主義の一側面(=金)だけを見ている人が、とても多いように思うのです。

システムに対する基本的な理解をしていないまま、資本主義の一部だけを理解し、利用している人がたくさん生まれているものだから、「資本主義なんて・・・」となってしまっているのです。
しつこいようですが、システムでは、何も解決できないのです。
そのシステムを理解し、上手に使う、「使い手」を増やす以外に、資本主義がもたらす「陰」の部分を減らすことなど出来ないと思うのです。
このところ、当事務所セミナー受講生に、短期の利ざや狙いに疲れた方の受講がちらほら増えてきました。
そのような方にいつも僕は、「ようこそ!」と思っています。

資本主義の「価値と価格」を学習することと、「金にガツガツすること」は、直接関係ありません。
むしろ、知らないからこそ、金にガツガツするのです。

あわせて、KISS第33号「お金の仕組みを教える理由」を是非御読みください。

2005年7月7日(七夕) 板倉雄一郎 

PS:
七夕と言えば、必ず思い出すのは、2002年の七夕に挙式を上げた、僕の結婚です。
結果は破綻でしたが、互いがその経験から、多くを学び、その学びを社会に還元できれば、失敗それ自体は、報われると思うのです。
彼女が、今はどこに住み、どんな仕事をしているのか(は、たまにTVCFで見かけますが)は知りませんが、彼女も多くを学び、それを社会に還元していることと思います。
そのときの自らの行為を「実は陰の部分の方が大きかったじゃないか!」と気がつくことができれば、その経験から、発生させた「陰」の部分以上に「陽」を生み出す事だって可能だと思うのです。





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