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SMU 第138号「幸福のメカニズム」

本日は、世の中お休みなのですね・・・・なので、幸福についての考察です・・・ちょっとだけ株価についても触れていたりします。

僕の大きなストレスの一つに、自分が評価するところの自分の能力と、世間(とはいっても、たいした有名人ではありませんから、「世間=僕を知っている人」程度に理解してください)の評価するところの僕の能力(と僕が認識するところの)の差を意識するというストレスがあります。
まあ、簡単に言えば「僕は、皆さんが思うほど賢い人間ではありませんからぁ?残念!」ってことを認識するストレスというわけです。つまり、期待を裏切りたくないという「ええかっこしぃ」が内在しているということです。

なんだかこれって、「うちの株価は、高すぎないか?(または、安すぎないか?)」と思うことが、全うな経営者の大きなストレスの一つであることに、似ているような気がするのです。
つまり、言い方を代えれば「当社の株価は、高くも無く安くも無い=妥当な株価」と認識することが、全うな経営者にとって、安眠できる状態であることと同じだと思います。

1、もし、株価が実体経済価値より高く評価されている時に増資を行えば、そのときに投資した投資家は、株価以下の価値しか手に入れることができないわけですから、その投資家にとって損です。
2、もし、株価が実体経済価値より低く評価されているときに増資を行えば、そのときに投資した投資家は、株価以上の価値を手に入れることができますから得ですが、増資前の株主にとっては、自分たちの価値を安く切り売りされるわけですから、たまったものではありません。(ちなみに、昨日のエッセイの続きとしては、敵対的(?)TOBのオラクルが設定した株価が低すぎるから、それを回避するために、ポインズビルを使うとピープル経営陣は主張していますが、ポインズビルの株価設定によりますが、多くのピープルの株主にとっては、低い株価で増資と言うことですから、たまったものではありません)
3、もし、株価が実態経済価値より低く評価されているときに自社株買いを行えば、そのときに当該企業の株主として残った株主は、株価以上の価値を手に入れることができるわけですから、残った株主にとって得です。

これらと同様に、
もし、自分の能力が、(自分が評価するところの)実態より高く評価されているときに、何か事業を行い、そのときにその事業に参加した人は、提供した価値(時間*能力*資金)以下の収益しか手に入れることができないわけですから、その参加者にとって損です。
(もし、自分の能力が、(自分が評価するところの)実態より低く評価されているときに、何か事業を行い、そのときにその事業に参加した人は、提供した価値以上の収益が得られるわけですから、得です。)

ということで、結局何が言いたいのかというと、「ある人が、実態より低く評価されているときに、その人の力になってあげる(=リソースの提供をする)ことが、結果的に、自らの収益をそれ以外の場合に比べて向上させる」というわけです。

あのぉ?わかっていただけマシタカシラ?

経営者自身が、自らが経営する企業を評価した時の価値と、さほど乖離しない株価であることを好む経営者って、全うな経営者って事です。
有価証券報告書などから、経営者の声を分析するときにとても有用だと思う評価方法ではないでしょうか?

で、話は僕のことに戻りますが、現状も含めた僕の過去は、常にどちらかに大きくぶれていて(フィナンシャル的に言うと、「板倉のβ値は大きくて(笑)」)、常に何らかのストレスを抱えているということなわけです。
結構、辛いわけです。
でも、辛いことは、生きている証拠ですからね。仕方ないです。
実態より高く評価されているなと思ったら、努力して実態の価値を上げるようにしますし、実態より低く評価されているなと思ったら、仲間を集めます。

話しちょっとそれますが、徳川家康の言葉を思い出しました。
「人の一生は重荷を背負いて遠き道を行くが如し、急ぐべからず。不自由を常と思えば不足なし・・・」
この言葉、僕の落ち込んだときに最もよく効く、麻薬です。

よって、こうなります。
「幸福とは、自らを評価した価値と、周囲が評価した自分の価値(と、自分が認識した価値)との間に、大きな乖離が無い状態から得られる」となるわけです。

ここで、問題になるのは、あらゆる価値の観測者が常に自分自身であるという点です。
この問題は、幸福を得るためには、二つのアプローチがあるということを意味します。
一つは、他の観測者の評価を、可能な限り自己の中に映し出すことと(株価のような数値は個人の場合は無いですからね)、その(自分が認識するところの)他の観測者から見た自分の価値の一致を図ろうとする行為(=評価が実態より高すぎる(低すぎる)と思ったときに、評価にあわせようとするか、評価が間違っていることを伝えること)の積み上げ。
もう一つは、他人の評価こそが、常に正しい評価であると決め込んで(=半ば「あきらめ」、または「開き直り」)、流れに身を任せること。
以上の二つがあると思うわけです。

さて、上記二つのアプローチの、どちらが真の幸福でしょうか?
どちらでもないでしょうか?
どちらも、幸福へのアプローチであって、多くの人は、容易に幸福に近づけないのでしょうか?
結局、幸福を得るには、以上の歪をごまかす麻薬(=薬物や、言葉など、ごまかしのためのスタッフすべてを含みます)が必要なのでしょうか?

2004年11月23日 板倉雄一郎





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