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SMU 第20号「意思統一という幻想」

新しく買ったパソコンがちょっと働き始めた。

Flight Simulator 2002』いわゆる飛行機をデスクトップで飛ばすシミュレーション・ソフトウェアである。

操縦全般はもちろんのこと、2万を超える全世界の空港やその周辺の景色、航空交通官制システム(ATC)とのやり取り、NAVやGPSそれにローカルな無線航法(ADF、VOR)も忠実に再現している。

もちろん機材についても、セスナ172(4人乗り)からボーイング777-300(500人乗り)まであったりする。

プレイステーション用ソフトの『パイロットになろう』などとは、シミュレーションのレベルが違うというわけだ。最初の「フライトレッスン」がやっと終わったばかりの僕では、777を上手に飛ばす事はできない。

パイロットではない僕が言うのは変な話だが、リアルである。

聞くところによると、航空会社(ANAとかJAL)の機材ごとの操縦免許の試験などは、既にシミュレータで実行しているということだ。

ちなみに、一台数十億円という本物のシミュレータ(ディズニーランドのスターツアーズの精密版)に乗りたくなり、とある航空会社の知人に頼んでみたところ、近いうちにその機会を用意してくれるということで、今から「本物のシミュレータで上手に飛ばせるように、パソコンのシミュレータでお勉強」というわけだ。

で、一度その方向へ気持ちが向かうと(熱しやすく冷め易いのだが)凝ってしまう僕は、操縦士免許を一般人に取らせる事業を営む知人に連絡し、言ってしまった。

「そろそろ、ヘリの免許取りたいんだけど」って。

腕にもよるが、(時間的に)集中してやれば、始めてから「自家用」の免許を取るまで、数百万円と1~2ヶ月で終わるらしい。

契約書にサインする前に「冷めなければ」今年中には、「自家用飛行機操縦士免許」なるものを手に入れ、東京ヘリポートあたりから、(レンタルのヘリで)大島だとか遠くのゴルフ場だとかにヘリで飛んでいくことになるかもしれない。

ちなみにヘリの着陸場所は、申請さえ出せば基本的にどこでも着陸許可が出るのです。(明日、「やっぱやぁ~めた」となるかもしれないけどね)

話は変わるが、久々のレーシング・カートに出かけた。千葉県は市原市にある「新東京サーキット」。

友人の酒井浩元レーシングドライバー(彼は18歳の時、全日本カート選手権で全日本チャンピオンになった)と最近カートを始めたバリバリの新人である整形外科医(31歳)と3人。 正直告白すると僕はかなり遅くなった。

体調が悪かったこともあったし、2年ぶりだったこともある。しかし、小一時間ほど走って「スピン」を一度もしなかったという事は、よく言えば慎重になったわけだが、悪く言えばタイムを出すために、以前のようにリスク・テイクが出来なくなったというわけだ。

簡単に言えば「怖い」のだ。 なぜ怖いのかといえば、リスクに対するリターンが見えなくなったからだ。 以前のように、自分が出したタイムに単純に喜べなくなってしまった。 こんな傾向は、生きてゆくうえで「上手くやる」には都合が良いが、「楽しむ」には都合が悪い。

フェラーリ360モデナでカートにやってきて、新品のカートを何度もスピンさせながらタイムアタックに挑戦するという、まるで10年ほど前の僕のような彼(整形外科医)の姿は、僕もして、あせりの伴わない羨ましさを感じさせた。

いろんなことが億劫になり、怖くなり、欲望が減衰していくことが、このところ顕著である。 自家用飛行機免許取得は、そんなことからの脱出のきっかけを探していたからなのだろう。 「欲しいもの」が欲しいという、とても贅沢な悩みなのかもしれないが。


<第20号>意思統一という幻想

戦争が始まった。きっと、複雑な世界がもっと複雑になっていくのだろう。

小さな社会で、人と人がそれぞれに複雑に絡み合って(それでも人の数から相対的に考えれば)殺人事件や訴訟などは、国同士のそれと比べればとても少ない。

それは、互いの都合の悪さや利害の不一致をある程度「許容」することが出来るからだろう。

国という単位になると(長期的にみれば)マスのコモンセンスで政策などが決まっていくから、右側(左側)の人が多くなれば、自然と右側(左側)の共通の意思を集める事によって、個々のそれより右(左)に偏ることになる。

例えれば、「酒」が集まって、その共通部分を浮き彫りにすれば、「エチルアルコール」となり、それは個々の「酒」からは遠く離れた(が、それでも元の要素を保っている)物質になる。もしかしたら、民主主義の課題はこの辺にあるように思える。(もちろん独裁政権よりは遥かにましだが)

そして、ワインやサケやウィスキーなどが集まった「酒」という集団と、サラダ油や重油などがあつまった「油」という集団程度の差なら「糖分」を導き出せても、「酒」と「油」と「硫酸」と・・・と成ると、共通なものなどなくなっていくからたちが悪い。

歴史が証明しているように、これと似た集まりである国連などの意思統一など、いつまで経っても出来ないのだろう。

世界は複雑な歴史の上に成り立っていて、今後、もっと複雑怪奇な関係になっていく。

例えがとても変たったかもしれないが、人の世の中から完璧な安全を生むシステムも生まれなければ、争いが無くなることもない。だから、個人、企業そして国それぞれの主張を、これからもぶつけ合っていくことになるわけだし、そこから逃げ出すことも出来ないわけだし、その行為はすなわち生きていくということそのものなのだろう。

なぜならそこに(殺人という行為も含めて)「絶対的」な善悪の判断基準なんて無いわけだから。

2003年3月20日 板倉雄一郎





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