皆さん、大変ご無沙汰しております。
8月の上旬にこの連載を始めるアナウンスをしたというのに、その後勝手に自主夏休みに入ってしまい、なんとなぁ~く「書く気力」を失っていたというわけです。
つまり、やりたくなかったのです~ごめんなさい。
「やりたくない」という気分を大切にする・・怠惰なだけのような気もするけど、「やりたくない」を精神論で打ち消し、ひたすら目の前の仕事をこなすということが、必ずしも良い結果を出すとは思わなくなったのです。
その原因は、もう5年も前のハイパーネット倒産がきっかけです。自ら目標を設定し、毎日その目標達成のための課題を作り出したり、問題が勝手に発生したりするわけですから、「やりたくない」は通用しない。そんな数年間の結末は大失敗でした。
僕は『社長失格』をはじめとするいくつかの文章の中で、失敗の原因を書いてきましたが、本質的な原因の一つとして「考える時間」の不足があります。
毎日、目の前の一つの予定の事しか考えられない行動は、気がついたらへんてこりんな方向へ向かっていたというわけです。目の前の予定を上手にこなすことばかりを考えて小刻みに前進するということは、ゴルフにたとえれば、その一打の「スイング」を上手にこなすことばかりを考え、本来の目的である「ホールイン」を忘れてしまう・・・結果、スイングがうまくいっても、ホールは何処か遠くにあったりするわけです。
「やりたくない」という気持ちを、直ちに怠惰と決め付ける勤勉日本人が成功する時代は、特に言及しないまでも終わりを告げていることは明白です。だから僕は「やりたくない」という気持ちには、心の中の何かのサインであるという可能性を最初に考えるようにしています。体でいえば「カレーが食べたい」とか「こってりしたものが食べたい」とか「さっぱりしたものが食べたい」という欲求が、健康な体を維持するための生理的な活動であることと一緒です。
「体」については、少なくとも「精神」より科学や医学の近寄りやすい分野だからか、客観的な研究の成果をメディアも人もわりと素直に受け入れます。そして、「自分の体に耳を傾けましょう」なんてことが言われるわけです。
心についても、体と同様、そのサインを注意深く観察することが必要だと思います。体の場合、それと直結された脳が体の情報を分析し、不足しているものや多すぎるものなどを特定し、健在意識にレポートした結果として「~が食べたい」があるように、精神についても、脳が集めた様々な内部情報、外部情報が有機的に処理され、健在意識に働きかけるのではないかということです。
「やりたくない」は、「今は、動かないほうが良いですよぉ~」という判断の現われなのかもしれないし、「落ち着かない」は、「解決しなければならない何かを忘れていますぅ~」ってな警告かもしれないということです。
「あなたの心に耳を傾けてみましょう」ってことになるわけです。ただし、これが通用するのは、体も心も、そこに健康的なベースがあってのことです。なるべく動かず、好きなときに好きなものを食べ、好きなときに寝る・・・それ自体が目的であった場合には、以上のような態度は、最悪の結果を迎えることになるからね。
とまぁ、いろいろ理由はありますが、僕が連載をお休みしていた直接的な理由もありました。7月下旬からはワンワンサービスのため、八ヶ岳は「ワンワンパラダイス」。8月上旬からは新婚旅行ということで2週間ほど渡米。ロスアンゼルスで友人と合流~ラスベガスではショーとカジノ~ニューヨークにて本場のミュージカルをはしご~サンフランシスコの景観を楽しみ~帰国という段取りだったのですが、ラスベガス滞在中に風邪をこじらせ、急遽帰国。その後2週間ほど風邪との格闘をしていたというわけです。
「なんだよ、結局遊び疲れでかけなかっただけじゃないかぁ~」といわれても、仕方ないわけなので、最初に薀蓄を並べてみたというわけです。へへ。
と前置きが長くなりましたが、今週からエッセイ書いていきますね。よろしく。
<第2号>「田中康夫長野県知事再選」
田中康夫氏を僕が最初に認知したのは、世間と同様、彼が『なんとなく、クリスタル』を発表して世間が騒ぎ出した1982年頃。
なんだかダッサイルックスで頭の良いヤツが、上手に日本人のブランド志向を刺激したなどと、単純に思っていたことを思い出す。彼に最初に会ったのは、今から4年ほど前、彼の方から僕に会いたいということで、共通の友人であるアースセクター社代表(現)(当時、大前健一のビジネスブレークスルー役員)である金野索一氏の紹介によるもの。
聞くところによると、めったに本など読まない田中氏が、ふらりと立ち寄った本屋にて、僕の著書『社長失格』を立ち読みして興味を抱いたということだった。
特別な興味は無いし、すでにメディアに多く登場しているわけではない。
そして正直「なんとなくクリスタル」以降の彼の著作は特別高く評価されたわけでも、話題になったわけでもない。それでも、何処か脳裏に引っかかる人物だった田中康夫氏のイメージは、「尊敬する」わけでも「大好き」なわけでも「大嫌い」なわけでもなく、つまり通常人をカテゴライズするどれかに自然に当てはまる人間ではなかった。
それまでの人間分類のどれにも当てはまらないということが、すなわち心象に残る最大の要因だったのだろう。あえて分類すれば「計算不能」、「処理待ち」などとなる。
彼に対する不快感というより、自分自身が処理しきれない不快感を覚えさせる。そんな彼からのラブコールは、そんな不快感を解決できるチャンスだった。
いわゆる合コンパーティーで共に遊び、時には僕の友人女性を紹介(?)したり、著名人の誕生日パーティーでその場に合わない「女性についての会話」を大きな声でして、二人でその場で浮いてしまったり。
はたまた経済産業省や財務省の官僚を呼びつけ「勉強会」を開いてみたりと、楽しい時間を共にすごしたが、結局のところ、彼を何処かのカテゴリーに振り分けることは、できなかった。長野県知事となった後も、僕は彼のケータイに電話をしては、目の前に居る女性を紹介したり、はたまた地方自治体に売り込めるようなインキュベート案件のプレゼンをしたりと連絡を取り合った。
勝つことが事実上明らかだった再選について、あまり興味は無かったが、再選後の報道番組を見る中で、彼をカテゴライズするヒントを得ることになった。結論から言えば「立ち位置の見つけ方、と立ち位置の原則的な意味を、人間関係より優先する人」ということだ。
人間は自らのポジションを維持したいがために、自分の立っているポジションが本来どんな意味を持っていて、何をすべきかを考える前に、それまでの個人的および公的な人間関係を優先する。
たとえば「夫婦だから浮気はしない」「上司だから文句をなるべく言わない」「大きなメディアだから丁重に対応する」といった行動だ。
そんな行動原理は社会で生活するうえで自然と身についている。そして関係を重視する行動原理が場合によっては現在問題となっている企業の不正行為を誘発したりする。しかし、彼は違っていた。どんなに大衆に影響力のあるメディアだろうが、一度抱いた女だろうが、自分を高く評価した人物だろうが、その時点の彼の立ち位置(現在は、長野県民の利益を最優先する立場としての長野県知事)にそぐわなければ、はっきりとそれを主張する。
その主張の仕方は「この主張で、これまでの関係が崩れるかもしれない」といった人間関係の足元のリスクを意識する影も無い。通常、「あの人は、自分の主張をしすぎる」とかいわれる人でも、大概は主張する段で人間関係のリスクをかなり意識する。しかし彼の場合は、人間関係より自分の「立ち位置のまっとうさ」が遥かに優先するというわけである。
誤解してもらっては困る。彼が人間関係を無視した独裁者と言いたいわけではない。むしろ、彼の「足元の人間関係」より「まっとうさ」を追及するほうが、結果として極めて良好な、本来あるべき人間関係が構築できるといいたいのである。
人は、人と出会い、何らかの人間関係の形成を始める。関係の形成を始める段階で相手を100%理解しているのなら問題は無い。しかしそんなことはありえない。関係の選択はたぶんかなり初期の段階、つまり相手に対する理解が不十分な興味の段階で始まる。
逆に言えば相手に対する理解が不十分だから興味を持ち関係を構築しようとするわけだ。だから、互いの理解が深まった後に、それまでの関係が互いにとって都合の良い関係とは限らない。
だからこそ関係を重視するという姿勢は、互いが隣接しているこの国の民族に育った文化だと思うが、それがいつの間にか、互いの存在のために関係を維持するのではなく、「関係そのもの」を維持する文化と変化してきているのがどこか僕はしっくり来ないのだ。
それを身をもって気がつかせてくれたのが、田中康夫氏である。人間関係を尊重する・・・人間を尊重するのか、はたまた、関係を尊重するのか?極めてあいまいで、互いが不文律にある事象を解決するのは、まさに現在の自分の立ち位置によって判断するという姿勢は、彼の言うところの「ノーブレス・オブリージェ」なのかもしれない。
2002年9月6日 板倉雄一郎