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SMU 第33号「残酷な子供」

<第33号>残酷な子供

最近本屋に立ち寄ると、正直うんざりする。
ビジネス書のコーナーでは、 「マッキンゼー」、「コトラー」、「シュンペーター」、「MBA」、「?論」って感じのムズカシイ「論書」が並ぶ。
投資と融資の違いもわからない、なんちゃってエクゼクティブが買っていくという寸法だ。
おそらく、買ったことに満足して、ほとんどの場合読まれていないのだろう。
しかし、これらの難しい本を金払って、時間を割いて読む必要なんて全く無いと僕は断言する。
なぜなら、昨今の経営経済における「理論」や「実践」は、既に誰かが書いている事を、時代背景を元にした最新の「言葉」に置き換えたものに過ぎないという事実だ。
(たとえば、『ピーター・ドラッガー』の近著のほとんどは、彼が40年前に書いた「現代の経営」(Practice of Management)をベースに、焦点を絞り具体化したものに過ぎないと、彼自身が書いている) ドラッガーを持ち出すまでも無く、とにかく最近のマネージメント系の書籍は、誰かの何かの表現を変えただけの場合がほとんどなんだ。
もちろん、マネージメント系に限らず、自己啓発系も同じだ。
つまり、「あの手この手」という手法で、「コンプレックス商品」のごとく、仕事がうまく行かない人たちとか、不安から解放されたい人たちとか、出来るふりをしたい人たちから、出版社と著者が銭を吸い上げているだけのこと。

一方、一般書、ベストセラーのコーナーでは、 「金持ちになる方法」、「口説く方法」、ってな感じで、HowToばかりが目に付く。
HowToなんて、僕にいわせればほとんど意味は無い。
(でも複数の出版社から、HowToを書いてくれと目次付きで頼まれたりするので困る・・もちろん書かない) なぜなら、すべての事象は、それぞれの事象に依存するわけだから、そもそも方法論で解決できるのは、それぞれの事象の半分以下の要素に対してのみであって、それ以上の部分は、「未知への対処能力」というHowToではなく、「知恵」でのみ解決可能というわけだ。
で、知恵ってのは、それぞれの事象に対して、それぞれの個人ごとにあるわけであって、そもそもコピーしてばら撒く「本」(一般化)にはなりえないのだ。

だから、僕は主に自分主体の具体的な「ケース」だけを書いている。
だけど残念ながら、読者の読解力がなくなったのか、読むのがめんどくさいのか、僕の本はそれほど売れない。
つまり、ケースから何かを読み取り、読者個人の属性に合わせて個人に落とし込むという作業が出来なくて、単に手っ取り早い「答え」を人は求めているんだな。
答えなど、どこにも無いのに。
「ケース」に価値があって、「ケース」からしか学べないんだよね、実は。

一説によると、今年の単行本の発行数は、なんと8万! と聞く。
全体のマーケットは下火なのに、数(本の種類)だけはたくさん出る。
よって、一作あたりの売り上げはどんどん減る。
なので、ビジネスとして考えたら、しばらく書かない方がいい。
そのうち、いくつかの出版社がつぶれたり、統合されたりして、再び「良い本」が売れる時代が来る事を待った方がいい感じだ。

ということで、いろいろ本の企画を考えてみたけれど、これまで年に一冊ほど単行本を書いていたけれど、しばらく止めとくことにしようと思う。
いつものとおり、突然気が変わるかもしれないけれど。


<第33号>残酷な子供

子供の頃って、結構残酷なんだ。
今は、犬を(僕なりに)大切に飼っているけれど、子供の頃は、残酷(?)だった。
自分に擦り寄ってくる猫を抱き上げ、特別理由も無く、ドブに投げ込んだことがある。
もちろん、そのドブは猫でも足がつくぐらい浅くて、生死に問題があるようなところではなかった。
しかし、僕のその行為によって、その猫はきっと人間嫌いになったはずだ。
今でも、自分の犬をかわいがりながら、その時の事をフラッシュバックする。
そして、後悔する。
物理現象としては、高々ドブに投げ込んで、猫が汚れたというだけのことである。
その程度のことなのに、多分死ぬまで後悔し続けるんだろう。
虫に至っては、もっとひどい事をたくさんしてきたと思う。
魚についても同様だ。

ただ、彼らの犠牲によって、少なくとも僕は「生」ということについて認識を深めたのだと思う。
今、子供の生活圏に、虫や魚が居なくなっている。
「生」を犠牲にすることを経験する最初の対象が「人間」になっている。
そんな感じがする。
というのは、ある程度まともな子供の話であって、ここ数年の児童犯罪の容疑者は、どうやら人を手にかける以前に、複数の動物に対する虐待をしていると報道されている。
ここまでくると、人格そのものの問題としか言いようが無い。

僕は、2匹の犬を大切にしている。
その姿を見て、「あなたは犬が死んだら、一緒に死ぬのか?」などというアサハカさ極まりない人が時々居居る。
もちろん、犬が他界しても僕は死なない。
彼らが他界したら、間違いなく悲しいだろう。
でも悲しいのは仕方が無い。
が、後悔はしたくない。
彼らが他界した後に、「もっと一緒に居てあげればよかった」などと思うようなことになったら、その後悔は、僕が死ぬまでずうっと僕に付きまとうと思う。
それだけは、絶対に避けたい。
彼らが他界したとき、「一緒に暮らせたというすばらしい思い出」を彼らに感謝して、その後の一生をおくりたいと思うのだ。
そうできたら、幸せだ。

僕は「人」に対しては、犬ほど世話を焼かない。
なぜなら、人には「自律」という能力と「自由」という選択があるからだ。
僕は、それを尊重する。
自律していること、自由で居ることが、人を美しくするんだろうと思うのだ。
偏差値や収入なんて「個人の幸せ」に基本的に無関係な事を仕込む親が増え、「自律と自由」を教える教育を親ができなくなったのだろう。
それを親が出来るためには、親が「自律」していなければ無理なんだ。
だから、ティーン(ロー?ハイティーン)の問題は、おそらく「ティーン+平均的出産年齢」の親の問題なのだろう。

2003年7月12日 板倉雄一郎





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