今朝、珍しく朝7時過ぎに買い物に行くためにクルマ(ダイハツ・ミラ)を運転しました。
200メートルも進んだところで、警察官でもなく、児童保護ボランティアの奥様方でもない中年男性に止められました。
男:「この時間、この道通っちゃいけないんですよ。」
僕:「はぁ↑???」
男:「今日から規制が厳しくなって、通れなくなったんです。知らなかったんですか?」
僕:「住民もですか?」
男:「ええ、そうです。明日からは警察官が立ち会って道路交通法違反の切符も切られますから」
僕:「ええっ!!!」
男:「必要であれば、警察署に車検証を持っていけば、すぐに通行証を発行してもらえますから」
僕:「・・・・・・」
男:「今日は警告だけですが、明日からは切符切られますからね。」
僕:「はあ・・・」
(結局、この人物がどんな役職なのかを聞くのを忘れてしまいましたが。)
千葉県船橋市の自宅周辺の住宅街は、近くに小学校や中学校があるために、学童の通学を保護する目的で、「7:00~8:30進入禁止」、という規制標識があるのは知っていました。
標識がある以上、規制時間に車を乗り入れれば、確かに「違反」にはなる。
けれど、(僕が思うところの)常識の範囲では、まさか規制対象道路に接する住宅に暮らす人が所有し運転する車ならば対象外だろう、と勝手に思っていました。
標識を改めて確認すると、「住民を除く」、といった注意書きは確かに「無い」
きっと、フルスロットル通勤バイクによる事故があったのでしょう。
あれ観てたら、「いつか事故るぞ」って思ってましたから。
しかし解せない。
解せない1:(この部分は本エッセイの主張には直接関係ありません)
男は、「知らなかったんですか?」、と、「知らない方がおかしい」的な口調で僕に言ったけれど、そんなローカルな規制について一体どんな手段で知ることができるんだろうか?
回覧板なのか?
道端にある掲示板なのか?
が、本主張とは直接関係無いので、この部分は割愛。
解せない2:
男は、「車検証を持って警察に行けば、『すぐに』、通行証を発行してもらえますから」、と言っていたが、それじゃ住民にとって事実上何の規制にもなっていない。
単に、「行政と住民の双方の」手続きの手間が増えるだけじゃないだろうか。
通行証が無ければ切符を切られるが、検問されたときに、「それをもって警察にて手続きするだけで『すぐに』通行証が発行されるはずの車検証」、を提示しても切符を切られるということだったが、非合理的としか思えない。
また、僕のような「行ったり来たり人間」の場合、都内の賃貸住宅に住民票があって、週の半分を船橋の自宅で過ごすような場合(または住民票の所在がその逆の場合)はどうなるんだろうか?
さらに言えば、僕のような生活スタイルで、車の登録が都内にあった場合はどうなるんだろうか?
ちゃんと、通行証が発行されるのだろうか?
確かに行政に完璧なサービスを求めるのには無理がある。
たとえば、何らかの事情で住所不定となっている人が定額給付金を受け取れないといった、「便益損失」ならたくさんあるでしょう。
けれど、切符を切られるというのは「便益損失」ではなく、「過料」となるわけですから、ちょいと話が違ってきます。
で、本当に解せないこと・・・
それは世の中、ドンドン規制が増える傾向にあることです。
その根底には、「違法じゃなければなんでもあり!」、と思っている人間が増加したこと、そして行政や家庭が時間のかかる「教育」や「マナー育成」を放棄し、手続きだけで簡単に執行できる「規制」という手段をアンチョコに行おうとするからではないでしょうか。
教師が生徒に暴力を振るう。
そんなことは、僕の学童時代には「当たり前」なことでした。
その頃は、(教師にも因りますが)、その暴力によって、生徒側は「本当に悪いことをした」ということに気づかされ、教師とのコミュニケーションが深まるといった「愛情」がありました。
今は、「ちょっとでも生徒に触れると処罰される」といった「規制」しかありません。
飲酒運転で重大事故を起こすケースがいくつか続けば、「一緒に飲んでいた人」、「アルコールを出した店」までもが処罰対象になる。
これ、批判を恐れず書きますが、「行き過ぎ」の法律だと僕は思います。
だって、そんなの「自己責任」じゃないでしょうか。
運転者自身が、「マナーと常識の範囲」で、「乗るなら飲むな」と認識して実行すべきことであって、アルコールを出した店や、一緒に飲んだ人まで処罰されるのはどうにも理解できないわけです。
こういう集団責任は、法律によって他者から規制されることではなく、その集団の中での互いへの思いやりから「運転するなら飲むなよ」と忠告すべきことなんじゃないでしょうか。
まるで僕が小学生や中学生の頃にあった、「教室全員で1時間正座!」、みたいな「集団責任」システムですよね。
そんな「子供向け」のシステムを作らなければならないほど、日本人のマナー意識、モラル意識が崩壊しているということに他ならないのでしょう。
「飲酒運転したら捕まって罰金払う羽目になるから飲まない」
のではなくて、
「飲酒運転したら他人に危害を与えるリスクが高まるから飲まない」
であるべきですよね。
「手続きさえすれば走れる」
のではなくて、
「住宅街の通学時間だからゆっくり注意深く走る」
であるべきですよね。
「MSCBが規制されたからやらない」
のではなくて、
「MSCBが既存株主を毀損するからやるべきではない」
であるべきですよね。
「殺人は、処罰されるからやらない」
そんな価値観が支配するようになったら社会って終わりですよね。
なにか事件や事故が起きるたびに、必要な規制を作る。
どんな時代でも、馬鹿な奴は居るから、ドンドン規制が増える。
そんなことやっていたら、規制によって防げる事件や事故もあるでしょうけれど、一方で、規制によって社会効率が悪化し、場合によっては、「現場の人間による合理的判断」という私達が生活するために極めて重要な行為さえ排除される社会になり、誰しもが常に弁護士を伴いながら生活しなければならなくなってしまう(というのは大げさですが)と思うわけです。
そんな社会、いいですかねぇ・・・
その典型の一つが、先日書いた「世襲制限」なる馬鹿げた法案です。
規制が増えるということは、すなわち私達生活者の「選択肢の減少」を意味します。
と同時に、私達生活者から「マナーやモラル意識」や「判断能力」を奪う結果になるのではないでしょうか。
皆がドンドン、判断基準は他人が作った法律のみなんていう「自分で考えなくなる社会」を、皆で作っていると思うのは僕だけでしょうか。
それとも、もうそうするしかないのでしょうか。
以上のことは、景気低迷なんかより遥かに重要なことだと僕は思います。
2009年6月16日 板倉雄一郎
PS:
断っておきますが、僕は僕自身が、極めてモラル意識が高く、常にマナーに気を使っている人間である、なんて思っているわけでも、主張したいわけでもありません。
ただ、気がつく範囲で、常に真っ当な人間で居ようとは思います。
そうできない場合も多々あります。
PS^2:
お食事会とアルコールの話・・・
僕は、ワインが大好き。
だから、自宅やホテルの部屋で、「一人飲み」をしてしまいます。
「肝臓大丈夫かなぁ?」
といつも心配しているわけですが、アルコールを抜く日があります。
それは、「お食事会」の予定がある日。
僕はお食事会でアルコールを口にしません。
だって、お持ち帰り用に車で行くから(笑・・・お持ち帰りは冗談ですよ)
というか、休肝日とするために、わざわざ車で出かけるわけです。
「それじゃ楽しくないんじゃない?」
と良く聞かれますが、慣れればそんなことぜんぜんありません。
皆が飲んで、僕が飲まなくても、その場の雰囲気が僕をして十分に酔っ払った気分にさせてくれます。
ウーロン茶飲みながら、「これ?水割り」とうそぶいているだけで十分楽しいわけです。