板倉雄一郎事務所 Yuichiro ITAKURA OFFICE

企業価値評価・経済・金融の仕組み・株式投資を分かりやすく解説。理解を促進するためのDVDや書籍も取り扱う板倉雄一郎事務所Webサイト

feed  RSS   feed  Atom
ホーム >  エッセイ >  ITAKURA's EYE  > ITAKURA’s EYE 「自分に何ができるかを考えましょうよ」

ITAKURA’s EYE 「自分に何ができるかを考えましょうよ」

「貯蓄も無く、仕事もいつ首になるかわからず、一体どうすればいいのでしょうか?」

そんな質問というか、アドバイスを求める声というか、悲鳴というか、をいただくことがあります。

「大変ですね。どうすればよいか一緒に考えましょう」

と、偽善者をやることはいくらでもできますが、そこはイタクラですから、ストレートにお返しします・・・

「困ったときになって初めて、『どうしたら良いか』、と他人の助けを請う姿勢に問題があるんじゃないでしょうか」と。

僕がアドバイスできる個人の経済対策とは、過去にも何度か書いている通り・・・

『好景気のときに必死に働き、お金を作り、可能であれば運用し、純資産を増やし、
 不景気のときに、そのお金で欲しかったモノや権利(←たとえば株式)やサービス(←お遊び)を買う。』

これに尽きるんです。

つまり、この方法を「長期に渡り」、「継続的に」、行うことが個人の経済対策の基本中の基本だと思います。
(ウォーレン・バフェット氏が行ってきたことも、基本は同じです。)

好景気のときに入ってくるキャッシュを、好景気によって価格が上昇したモノやサービスに調子よくバンバン使い、不景気のときに、不景気によってせっかく価格が下落したモノやサービスを手に入れる十分な資本が無い。

それが「大多数」の生活者の行動です。
そう断言できるのは、そうだからこそ好景気・不景気が生まれるわけですから。

好景気のときの100万円の使い勝手に比べ、不景気のときの100万円の使い勝手の方が、遥かにいいですから。

これは、「自分だけ良い思いをする行為だ」と思われるかもしれませんが、そうとは言い切れないと思います。
なぜなら、好景気がバブル化することを、「ほんの少しですが」抑制する効果がありますし、不景気のときに全体がシュリンクしてしまうことを、「ほんの少しですが」抑制する効果があるからです。
が、そんなことは、「結果論」に過ぎず、本当は「自分が良い思いをしたい」という願望の実現のために、我慢すべきときは我慢し、努力すべきときは努力し、遊ぶときは遊ぶをやっているというわけです。

僕は自動車好きです。

いくつかの趣味の動機の大部分が自動車に起因しています。
したがって、欲しい自動車はたくさんあります。
今、中古車市場の相場を見て、本当にびっくりします。
ぶっちゃけ、「なんでも気軽に買える」。
(ちゃんと「試乗」してから買いますよ。同じ失敗を3回もしたくないですから)
中古車販売店の価格を見てもびっくりしますが、販売店のマージンの乗っていないオークション価格を見ると、本当にびっくりします。
走行1,000㎞以下の「工業製品としての新車(法的には中古車)」が、新車価格の半分以下なんて場合も結構ありますし、わずか2年落ちの超高級車が新車価格の1/3なんて場合もザラです。
(ちなみに、「ポンド安」のおかげで、英国製を英国から直接買う場合、さらにお安くなっています)

企業の株価の場合、それを担保する将来のキャッシュフローは、不景気と共に減少する見積りをすることになりますから、価格下落と共にその価値も減少してしまいます。

しかしながら、自動車のような工業製品の場合、その使途が不景気によって制限されない限り、同じ価値を維持するか、場合によっては、道路を走る他の自動車との比較で相対的に、その価値が増大することさえあります。

ただし、株式などの権利と異なり、多くの工業製品は、時間経過と主に、その価値が減少してしまう「消耗品」であることを考えなければなりませんから、「バンバン買う」をやってしまうと、資産が減少し、次の「儲けのチャンス」を拾えなくなってしまうわけですから、「ほどほどに」を忘れないようにしなければならないわけですけれど。

今、「自動車文化」を楽しむ上で、非常に有利な環境です。
もちろん、電気自動車でもいいわけです。
道路は、驚くほど空いていますし、ガス代も(そのうち上げるでしょうけれど、今は)昨年までに比べ安いですし、ドライブがてら立ち寄る飲食店や遊園地の価格も昨年までに比べやすいですから。
結果として、同じルートを走る場合、ガスの消費量は少なくて済みますし(=渋滞が無く燃費が良い)、何と言っても、ドライブしていて気持ちがいい。

以上の「自動車を楽しもうぜ」という内容を書きながら、つまり表現したいことは・・・

「常に、有利なポジションを取りながら生活しましょうよ」

ってことです。

好景気にガンガン仕事することも、
不景気にお金を使うことも、
道路が空いているときに、欲しかった自動車を手に入れ、ドライブすることも、
(小さい頃)オマケのブロマイド目当てにスナック菓子を買う輩を横目で見ながら、封も切らずに捨てられたスナック菓子を持ち帰って食べていたことも(笑)、
要するに・・・

1、現在の自分と、自分の環境を正確に把握し、
2、有利なポジションがどこにあるかを考え、
3、自分の趣味趣向を考慮して、行動する。
というプロセスによって、そうで無い場合に比べてハッピーが得られるということなのだと思います。

ただし、このやり方には、不都合もいくつかあります・・・

1、価値把握を他人に依存する傾向の方にとっては、好景気のときの「我慢」が辛い。

豪華海外旅行だ、超高級車だ、高級住宅だ、高級フレンチにワイン三昧だ、といったことが好景気の時には巷に蔓延しますから、「みんながやってるから自分もやりたい!」と、飲み込まれてしまう傾向の強い人には、このときの「我慢」は、恐らく辛いことだろうと思います。

「我慢」は、僕にとっても辛い。というか、僕ほど「我慢ができない人」も他に居ないとさえ思います。
僕の場合は、「我慢」ではなく、自らの欲望の方向を変えることによって、我慢をせずとも合理的な方法を取れるようにしています。
たとえば、2007年までの好景気の時には、比較的コストのかからない釣りやキャンプを「積極的に」楽しもうと思い、実際にそうしていました。
要は、自分の気持ちの「持っていきよう」によって、我慢⇒ストレス蓄積⇒精神的負担⇒身体的負担とならないようにしています。

2、世間と違った行動をするが故に、友達が少なくなる可能性がある。

不景気に、自分ひとりだけが浮いた存在になってしまうことを懸念する方もいらっしゃると思いますし、好景気で世間がワイワイやっているときに、一人静かに釣りを楽しむことを辛く感じる方もいらっしゃると思います。
けれど、どんな状況でも、同じ境遇の人、同じ趣味の人は必ず居るものです。
そして、「本当の友達」、「本当の恋人」、「本当の家族」とは、そういった「仲間」なのだと、少なくとも僕は思います。
誰かれ構わず、付き合ってくれる人の「数」を追うのではなく、腹を割った話ができて、同じ時間を共に楽しめる人が、仮に数が少なかったとしても、居ればいいのではないかと思います。

<本当に仕事が無いのか?>

こんなことを書いていると、

「じゃあ、俺は手遅れなんだな」

と思ってしまう人が居るかもしれません。
けれど、ぜんぜんそんなことはありません。
今から、以上のような「リズム」を身に付ければ良いと思います。
僕の場合も、10年ほど前に「すべてを失った時期」がありました。
その失敗から、たくさんのことを学び、今に至っています。

たとえば仕事・・・

世間では、「働きたくても仕事が無い」という訴えが多いですよね。
本当に仕事が無いのでしょうか?

介護だって、農業だって、漁業だってあるじゃないですか。
(もちろん、現在の失業者、および、失業予備軍のすべてを吸収できるほどの労働需要があるとは思えませんが、仕事が全く無いというわけでは絶対にありません。)
現在のスキルのままで、今までと同じような単純労働であれば、確かに「仕事が無い」といえると思います。
けれど、そんな甘えた考えの人は、景気循環以前に、淘汰されてしまうわけです。
マン喫でネットサーフィンして、漫画読みながら、「仕事ねぇ~なぁ~」なんて言ってたら、そりゃ仕事みつから無いですよ。
こういう人たちって、マン喫の利用料だけは払えるんですよねぇ、不思議です。
公立図書館行って、仕事のスキルをアップするような本でも読んだほうがよっぽどいいと思いますけれどねぇ・・・

何が得られるか < 何を提供できるか。であるべき時。

巷から聞こえてくる声は・・・

「政府が何をしてくれるか」、
「会社が何をしてくれるか」、
「友達が何をしてくれるか」、
「家族が何をしてくれるか」、
そんな、「社会が自分に何をしてくれるか」といったリクエストばかりだと感じます。

政府や中央銀行が行う景気対策「だけ」で景気が回復するなんてことはありません。
景気とは、一人ひとりが社会に対して何らかの価値を提供することが盛んになって初めて浮揚するものです。

今こそ、「自分に何ができるか」を真剣に考えるべきときなのだと思います。
だって、政府による財政出動とは、要するに、「私たちの将来のお金を今吐き出すこと」に他ならないわけですから。

既に、長期金利が上昇を始めています。
長期金利とは、長期国債の「(利率ではなく)利回り」のことですが、最もリスクの低い(=リスクフリーな)債券であるはずの国債が、政府による財政出動や民間の不良債権の買取などによって民間のリスクを吸収する結果、そのリスクが高まることを示しています。

いつも書いていることですが、お金がどこからか沸いて出てくることは無いのです。
何かを得れば、一方で、何かを失う。

皆が、「欲しい!欲しい!」と言って、政府が財政出動を「やりすぎれば」、将来に間違いなくツケを残します。

それは、将来の税負担であったり、過度なインフレであったり様々です。

社会に対して「欲しい!」と訴えることによって、何かが得られたとしても、その分、将来に何かをしなければならなくなるわけです。

そうならないために、今こそ、「自分に何ができるか」を考え、行動すべきときだと思います。
その方が、自分にとっても、社会にとってもプラスになるはずです。

2009年2月16日 板倉雄一郎

PS:
バレンタインのチョコレート、僕は、義理チョコ3つでした(涙)
誰にも会わずに、一人で過ごしていたわけですから、仕方ないですけれどね。
クリスマスとか、バレンタインとか、そういう「踏み絵日」は、苦手だなぁ(笑)

PS^2:
「板倉の主張には『情』が無い」といった感想をいただきました。
「情」って、与えるものじゃないでしょうか。

今、世界中が「疑心暗鬼」になっています。
インターバンクに限らず、お金が流れなくなっています。
中央銀行がどれほど金融緩和を行っても、市中銀行の立場では、デフォルトリスクの高まった企業に融資はしません。
金利がほとんどゼロの日銀当座預金より利回りが高い一般企業への融資の方が得なはずだ、という理屈が金融緩和の基本理論ですが、いくら表面上の金利が高くても、デフォルトしちゃう可能性が高ければ、誰も融資しないですよね。
「情」によってデフォルトリスクの高い企業への融資を行い、実際にデフォルトしてしまったら、(銀行側の)株主や預金者に対する「情」はどうなってしまうんでしょうか。

「情」をいただけば、僕だって喜びますし、感謝します。
けれど、「情をよこせ」とは思いません。

まるで「冷血動物」みたいですが、ワンコを含む家族に対して、「経済合理性」を訴えることなどしませんし、一緒に遊んでくれる友人に対しても「非合理」なことを結構やります。

というか、今、このワガママな僕に何らかの価値を見出してくれて、忙しい合間に一緒に遊んでくれる友人達を、本当に貴重だと思っています。
彼らがトラブルに見舞われれば、合理性を捨てて、自分にできることをやると思います。
ただ、そう思える人が、決して多くは無い、ということなのだろうと思います。

というか、「自分を信じて、自分を鍛え、他人に依存するな」という主張を伝えることが、僕にとっての「情」なのだと、僕は思っています。

お金で困っている人に、お金を与えたとしても、またすぐにお金に困るわけです。
お金で困っている人に、お金を扱う知識を与えることの方が、愛情に満ちた行為だと、僕は思いますけれどねぇ・・・。





エッセイカテゴリ

ITAKURA's EYEインデックス