カール・ベンツとゴットリーブ・ダイムラーがドイツでガソリン内燃機関自動車を発明してからおよそ100年。
ドイツで生まれた自動車は、フランスによって大衆化し、アメリカによって実用化し、世界に広がりました。
自動車大国アメリカのビックプレイヤーが法的整理に入ったからと言って、自動車の時代が終わったわけではありません。
むしろ、「これから先自動車にビジネスチャンスがある」、と言ったら・・・
「アホか!」
といわれるかも知れませんが、僕はそう思います。
理由は簡単です・・・
1、必需性
自動車を、「クルマのカタチをしたボディー、内燃機関を動力、四つのタイヤが付いて、
人やモノを乗せて動く」という物質的特長ではなく、「プライベート移動ツール」という概念で捉えた場合、その必需性は、今後も当然ながら続くと思われること。
(東京都心では、非合理的な乗り物ですけれど・・・余談ですが、「クルマ離れ」などと言われていますが、そりゃそうですよね・・・駐車規制も、飲酒規制も厳しくなるんですから、「クルマ離れ」というより、「クルマに乗るな」と言っているようなものです。)
2、変化のチャンス
言うまでも無く、ハイブリッド、電気自動車、小型化、IT化、利用形態の変化・・・
とにかく、今、自動車ほど、技術面においても、需要面においても、生産面においても、「変化」がこれほど激しく、世界的規模で発生している製造業って他に無いですよね。
変化・・・つまりそこにはチャンスが必ずあるはずです。
そして、落ち込んだとは言え、まだまだその「市場規模」は、めちゃくちゃデカいわけですから。
何しろ、ぶっ飛ばし「た」GMの場合であっても新生GMは、(その数字にどれほどの根拠があるか不明ですが)、600万台/年程の生産を続けるようですし、自動車によってはその程度の需要は恐らくあるでしょう。
「必需である」 × 「規模がデカい」 × 「変化が求められている」 = めちゃめちゃチャンスがある。
僕はそう思います。
ここでいうチャンスとは、「自動車メーカーにとってのチャンス」、という狭義の話ではなく、裾野の広い自動車産業のあらゆるプレーヤーにチャンスがあるということです。
たとえば・・・
電気モーター、蓄電池技術、自動運転、安全装置など個体としての自動車に関連するものばかりではなく、交通情報やナビなどの自動車情報技術。
電気自動車に移行する上での(GSならぬ)充電サービスステーションなどインフラ。
そして、カーシェアやレンタルのようなサービスまで、言ってみれば何でもありです。
変化をチャンスと前向きに捉えれば、「伝統的な自動車会社ビジネスモデルが一掃されるおかげで、新たなビジネスモデルを構築できる可能性がある」。
そう考えると、なんだかものすごく大きなチャンスが転がっているように思います。
「鉄とプラスチックで作られ、ガソリンを燃やしながら走り、ファイナンスをツケながら売る」
そんな”自動車”の時代が終わっただけで、概念としての「プライベート移動ツール」は、今後も発展し、数十年後には、「モビルスーツ」みたいになっている可能性だってあるわけです。
自動車で儲かるのは、いわゆるブランドを持っている自動車会社だけではありませんし、利益「額」ではなくROIC(投下資本利益率)で捉えれば、自動車会社以上に効率よく稼げる分野もあるわけですから。
ある意味、楽しみです。
(でも、古き良き時代の自動車オタクとしては、「フウォ~~~~ン!」とか、「ブロロロロロ!」とか、「500馬力だぞ!ていていてい!」とかの感じが徐々に、「アホか!」と思われてゆくであろう価値観の変化は、正直さびしいですけれど。)
2009年6月1日 板倉雄一郎
PS:
最近の報道に、「自給率(主に食糧)」をテーマにする内容が増えてきていますよね。
先進国の中で突出して(食糧に限らず)自給率の低い日本の「政府が」、最も重要な課題として進めなければならないことだと思います。
大賛成!
PS^2:
バラマキというか、金融機関への「ブッコみ」のおかげで、いわゆる資金の「目詰まり」は徐々に解消されているようです。
しかし、
にて既に書いたとおり、金融機関の貸し出し姿勢は、なお厳しい模様です。
「貸し出ししない」のは、お上に怒られるからということで、「スプレッド(=調達コストと運用金利の差)」を大きく取ろうとしているようです。
経済全体にとって、「ぜんぜんカネが出てこない」、よりは遥かにマシですが、企業や個人の資本調達コストが上昇傾向にあることは間違いありません。
その上、あらゆる資本コストの「底上げ」となる「長期金利」も、各国の国債大量発行を前に、徐々に上昇しています。
結局、「労働による生産性」が高まらない限り、「実質成長」にはなりえないわけです。
PS^3:
一昨年の今日は、僕の愛犬・雄太(ゴールデンレトリーバー雄)は、11年と6ヶ月の生涯を閉じた日です。
命日の今日は、彼の遺骨を散骨した房総半島は九十九里まで、手を合わせに出かけてきます。
なんか、そういった行為は、彼に会えるような気がするわけです。