今更ながら、「お金って何?」、を考える毎日です。
住宅街にひときわ目立つ豪邸を見る度に、
資本市場で日々行き交う資金量を見る度に、
書店に並ぶお金関係の本の種類の多さを見る度に、
慣れた運転で超高級車に乗る女性を見る度に、
激安ストアーや激安飲食店の情報を見る度に、
貧困に苦しむ人の生活をメディアで見る度に、
パーティーやお食事会などで、このご時勢でも羽振りの良い人に会う度に、
過払い請求サービスの法律事務所のテレビCFを観る度に、
パチンコ関連企業のテレビCFを観る度に、
24時間働き詰めの救急医療に従事する医師の姿を見る度に、
それぞれのお金の稼ぎ方の違いを感じる度に、
お金という尺度における格差を感じる度に、
とにかく、「お金ってなんだろう?」、そんなことが頭から離れない。
メディアを通して観る政治に関する該当インタビューでも、景気や生活や仕事・・・つまりお金に関する返答をする人が(そう思わせる編集のバイアスかもしれませんが)極めて多くなったと感じます。
2008年の金融ショックを受け、「金融資本主義の終焉」だとかが言われることしばしばですが、金融ショックを受け、人々のお金に関する関心は、それ以前に比べむしろ高まっていると感じます。
「お金って何?」、を考えざるを得ない状況は、「お金の稼ぎ方」、「お金の使い方」、「お金の増やし方」・・・つまり、「生きる上でのお金の価値」、が益々重要になっていることを認めざるを得ないわけです。
その昔、時代の寵児ともてはやされ、その後当局の取締りを受けることになったヒルズ族のある男が、「世の中お金で解決できることばかりだ」、とのたまったことを思い出します。
僕は当時、その時代の寵児に対する批判を繰り返していましたが、当時でも今でも、彼の(稼ぎ方はともかく)言うところの「お金の価値」については肯定します。
ただし、その彼が言うような金融ショック以前のお金の価値が、「ゲームのコイン」だったのに対し、金融ショック後のお金の価値は、「生活の糧」という側面が強調されるようになったという大きな違いを感じます。
あくまで統計的にではありますが、所得に相関する事象は様々なところで観測できます・・・
親の所得と子の学力の相関、
所得と疾病、寿命の相関、
所得と住居の相関などなど。
そして統計的にではなく、肌で感じる所得に相関する事象も様々なところで感じます・・・
パーティーなどでの笑顔の数と所得の相関、
溢れ出る自信に満ちた態度と所得の相関、
お食事会などでの女性が男性に向ける視線と男性側の所得の相関、
男女わけ隔てなく、肌のつや、若々しさと所得の相関などなど。
つまり、お金は、金融ショック以前の「ゲームのコイン」以上の価値を持ち始めたのだと感じます。
確かにその通りですが、金融ショック以前のお金は、生活のアップサイドを得るための手段だったのに対し、金融ショック後のお金は、生活のダウンサイドリスクを回避するための手段に変貌したという点は見逃せない変化です。
「どんな目的のために(手段としての)お金を稼ぐの?」
極めて抽象的ですが、その質問に対する自らの答え、そして、推測に過ぎないけれど他人の答えを模索することが、変化した世界でビジネスする上で極めて重要だと思います。
車・・・その車、なぜ所有するの? なぜその車なの?
住居・・その家、なぜ所有するの? なぜその場所なの?
資産運用・・・そのお金、何のために稼ぐの?
贅沢(とされていたこと)・・・何を得るために贅沢するの?
盲目に他人より価格の高いモノを求めていた時代は終わったけれど、資本主義はより現実感を増しています。
「多ければ多いほど良い」、という考えが横行していた時代には、「お金の増やし方」が重要でしたが、今は、「どんな目的のためにどう使うか」が重要になったのではないでしょうか。
このところ悶々と僕自身の新たな方向性を模索していたことで、エッセイをサボったり、一日中ベッドで寝転がっていたりしましたが、なにか見えてきたように思います。
いずれにしても、お金の価値、は、益々高まる一方だと思います。
2009年9月15日 板倉雄一郎
PS:
昨日は、久しぶりのお食事会でした。
珍しく僕自身のセッティング。
その昔、他人のセットでお会いした女性からのリクエストで開催したお食事会でした。
「なんでお食事会に参加するのだろう?」
本文のように、「なぜ?」、を考えてばかりなのか、盲目にクロージングを求めなくなった結果、お食事会そのものが以前にも増して楽しく感じました。
「その行為、何のため?」
その行き着く先は、「なぜ生きてるの?」ってことになるのでしょうか。
PS^2:
やはり、10月4日のオープンセミナーの僕のソロのテーマは、
「お金ってなに?」・・・その稼ぎ方、増やし方、使い方。
にします。
経験的なエピソードなどを交えて。
テーマをなかなか決められないのは、「そのとき強い興味のある話題でないと集中して話すことができない(=講演の価値が低下する恐れ)」を危惧するからなんです。
まあ、要するに、ワガママ、気分屋、なだけなんですけれど。