板倉雄一郎事務所 Yuichiro ITAKURA OFFICE

企業価値評価・経済・金融の仕組み・株式投資を分かりやすく解説。理解を促進するためのDVDや書籍も取り扱う板倉雄一郎事務所Webサイト

feed  RSS   feed  Atom
ホーム >  エッセイ >  ITAKURA's EYE  > ITAKURA’s EYE 「アンバランスな2008年」

ITAKURA’s EYE 「アンバランスな2008年」

2008年は、様々な意味で、アンバランスな年でした。
自分自身も、社会も。

本日のエッセイを持って、板倉雄一郎事務所は年末年始休暇に入りますので、2008年最後のエッセイは、徒然とさせていただきます。

尚、2009年は1月7日(水曜日)よりの開始となりますので、2009年もよろしくお願いいたします。

<過剰生産のアンバランス>

金融危機に振り回された2008年でしたが、振り返ってみれば金融危機という「キッカケ」によって浮き彫りになったのは、世界の過剰生産であり、需要と供給のアンバランスです。

自動車産業において、レイオフ、工場の稼動休止などが相次いでいますが、

「車が買えなくて生活できない!」

なんて話はどこからも聞こえてきませんし、

「自分の車は古くて、遅くて、使い物にならない!」

なんて話もどこからも聞こえてきません。

メディアでは、「ファイナンスが付かないから車が売れない」といったことがまことしやかに表現されていますが、それって本当なのでしょうか?
確かに、ファイナンスが付かないことが車が売れない「直接の原因」でしょうけれど、実は、「今の車で十分」なのだと思います。隣の家も新しい車を買わないのなら、当家も必要ない。その程度のモノなのだと思います。

車に限らず、人類は「本当に必要ではないモノ」から生み出される利益によって社会を維持してきたのではないかと思います。

本当に必要ではないモノのために貴重な資源を消費し、
本当に必要ではないモノを何とか売りさばくためのマーケティング技術が進歩し、
本当に必要ではないモノを作り、使うために温暖化ガスを放出し、
本当に必要ではないモノに人類が翻弄されてきたのだと、改めて感じる年でした。

金融危機が本質的な問題でしょうか。
金融危機に対するパニックが一段落し、振り返ってみれば、

「金融危機はキッカケに過ぎず、世界の過剰生産が本質的な問題だ」という結論に至っています。

そもそも、金融危機においても、必要の無いモノを「買わせる」ためにファイナンスが発達し、果ては、返済できる見込みの無い者に対しても「買わせる」ためにファイナンスを付ける行為が蔓延し、そのリスクが顕在化したに過ぎません。

世界が、「今の不景気は金融危機のせいだ!」と思っているうちは、何も解決しないのではないかと思いますが、一方で、世界的な景気減速のおかげで、あらゆる分野の生産縮小が自然と行われるわけですから、誤解を恐れずに表現すれば、「放っとけばいい」と思います。

世界では中央銀行や政府によるバラマキが盛んですが、現在のように「既に終焉しつつあるビジネス・モデルへのバラマキ」をやっているようでは、問題を少々先送りするだけで、本質的な解決にはならないと思います。

何度も書いていることですが、既存のビジネス・モデルに「根ざさない」新たなビジネスモデルが今後登場するでしょうし、10年も経てば、それらのビジネスが成長し始めているのではないでしょうか。

投資を集め、工場を作り、大量に人を雇用し、「高付加価値」と言えば聞こえは良いが、実は必要の無い機能を詰め込み、何とか「買わせる」仕組みを考え、何とか利益を出すという20世紀のビジネスモデルは、この機会に「さいなら」したほうが良いと思います。

世界が変化する「良いキッカケ」が金融危機ではないでしょうか。

 

<利害関係者への配分のアンバランス>

世界的に「雇用確保」が問題になっています。
レイオフによって、一次的には企業の収益はその悪化を食い止めることができます。
しかし一方で、将来の「お客様」はいなくなってしまう可能性が高くなります。

これが経済というものです。

2004年~2007年までは、いわゆる「株主重視」。
金融危機が顕在化した2007年後半からは、「被雇用者重視」。
結果的に、どちらも、行き過ぎたアンバランスです。

「企業は誰のものか」などと言うくだらない議論がされていた時期に散々書きましたが、企業とはモノではなく、利害関係者(顧客、従業員、取引先、債権者、株主、国や地方地自体)が集まり価値を生み出す「仕組み」です。

その「事実」から考えれば、どれか一つの利害関係者へ配分が偏れば、企業の存続は危うくなります。すべての利害関係者が満足する配分を行い続けることが、優れた企業の必要条件です。

今、利害関係者のバランスを上手に取れる企業が生き残るのだろうと思います。

 

<報道のアンバランス>

最近アンバランスが気になるのが、「朝日新聞系列の被雇用者の利益に偏りすぎた報道」です。

特に「報道ステーション」はひどい。

しかし、民法キー局の業績を比較すると、今は、テレビ朝日がダントツです。
このご時勢を如実にあらわしていると思いますが、これはこれで被雇用者に偏りすぎているアンバランスだと、後に評価されることでしょう。

そもそも「作ったモノが売れない」のですから、「首にするなぁ!」と叫んだところでどうしようもないわけです。

お金がどこからか沸いてくるわけではないのですから。

古館さんもかなりの高所得者ですけれど。(笑)

以下、本日、満45歳になる自分のアンバランスについて・・・

 

<やりたいこととやっていることのアンバランス>

2008年の板倉は、やりたいこととやっていることのアンバランスが目立ちました。
もっと正直に表現すれば、「一体何を求めているのかサッパリ分からない」状態でした。

そのせいか、狂ったようにお遊びに徹していました。

本来、「こういうご時勢だからこそお金や経済に関する知識で身を守るべき」と言いたいところで、実際2008年上半期までは言い続けてきたのですが、いくら表現したところで、需要が減少してしまえばそれまでです。

でも、金融危機をキッカケにした経済減速が「一段落」すれば、そんな需要もまた増えてくるのではないかと淡い期待を持っています。

2009年は、再びセミナーや書籍による知識の提供を叫んでみます。(笑)

それでもダメなら、あきらめます。
自動車より遥かに役に立つはずなんですけれどね・・・

 

<主張していることとやっていることのアンバランス>

「博打は止めようよ!」

そんな主張を繰り返してきましたが、2008年の運用はオプション取引という一般論としての博打でした。

そして少なくともその行為が社会に直接与える価値はほとんどありません。
それでも、僕は(外部から見た場合の)博打に勤しみました。

1、僕にとってそれが博打に見えないチャンスがあったから。

単純に相場における「儲け」だけに着目すれば、「上がるか下がるか」ではなく、「読めるか読めないか」が重要なことは誰でもお分かりだと思います。

2008年9月~11月は、少なくとも僕にとって「極めて読みやすい相場」だったわけです。その意味では、僕にとってオプション取引は博打ではありませんでした。

2、僕は聖職者でもなければ、哲人でもありません。

目の前にお金が落っこちていたので拾ったわけです。
その行為が社会に提供する価値はほとんどありません。
けれど、「お金は社会に対する議決権」である以上、その議決権が転がっていればそれを拾って当然です。

但し、そのお金を拾うために、資産の大部分を投じたりしているわけではありません。あくまで、僕にとってマーケットにポジションを取ることによって得られる経験とお金が利益というわけです。

いずれそれらは、社会に価値を提供するカタチでフィードバックします。

僕は、聖職者でもなければ、哲人でもなく、ビジネスマンですから。

但し、得られたお金の「使い方」については、しっかり議決権として「育って欲しい企業への投資」や、「継続して欲しい企業やお店での浪費」として吟味した上で行使したいと考えています。

2008年12月26日 板倉雄一郎

PS:
とうとう満45歳になってしまいました。
どこからどう見ても、オッサン真っ最中です(笑)
でも、40歳を過ぎた頃から、「実年齢なんて関係ない」と自分に言い聞かせるようになり今では、本気でそう思っています。

どういうわけか年を重ねるごとに、「元気(←身体の一部についてもね(笑)」が加速し、元気で楽しく居ることがナイスガイ&レディスを引き寄せ、さらに楽しく元気になっていくようです。

僕は、モノやお金のすべてを失っても、恐らく元気です。
それは、仕事も無い、お金も無い、予定も無い、彼女も無い、何も無い1998年を経験したからです。

あの時、思いました・・・

「今が幸せと思える能力こそ、幸せの条件だ」

人は、「~さえあればなぁ」とか、「~がないから不幸だ」とか、幸せに「条件」を付ける傾向があります。

でも、それでは死ぬまで幸せになれないと思います。

1億あれば10億欲しくなり、10億あれば100億欲しくなるものです。
「彼女さえいれば」とブログに書き残し、秋葉原で無差別殺人をした人が居ましたが、実際彼女がいることによって様々な弊害もあったりするわけです。(笑)

何かを手に入れるということは、すなわちその何かに対する責任を持つことに他なりません。

とにかく、「今の自分はハッピー!」と思えるかどうかが、幸せであるかどうかのすべてだと思います。

僕は、45歳まで(まぁ色々ありましたが)生きてこれて本当に幸せです。

自分の誕生日は、自分を生んでくれた母上に感謝するべき日だと思います。

母上、ありがとうございます。

それにしても、45歳という年齢と、実際にやっていることは、世間一般から見ればアンバランスそのものですね。





エッセイカテゴリ

ITAKURA's EYEインデックス