板倉雄一郎事務所 Yuichiro ITAKURA OFFICE

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ITAKURASTYLE「格差問題」

「朝まで生テレビ!」では、過去の出演時もそうであったように、
言いたい事の1%ぐらいしか発言できませんでした。
例によって、その分、この場で僕の考えを述べさせていただきたいと思います。

<格差問題は国内問題ではない>

経済的な格差を考えるとき、
その「原因」を突き止めることからはじめなければなりません。
格差の原因は、さまざまなことが推測されますが、格差が拡大しているとしても、それを「国内問題」と捉えているうちは根本的な解決はできないでしょう。
なぜなら、経済のグローバル化によって、中国や東南アジアなどの「(国内に比べ)安い労働力」が流入した結果、その安い労働力と同等程度の単純労働しかできない人の雇用機会が失われていることが、格差を生む「ひとつの」大きな原因だからです。

グローバル化による安い単純労働力の国内流入を政策的に排除すれば、単純労働を行う国内の労働者の雇用機会は確保されるかもしれませんが、一方で、企業の生産コストは上昇し、結果として「価格競争力の無い商品」しか生み出すことができなくなり、海外マーケットはもとより、国内の消費者も、「日本企業製」を受け入れなくなってしまいます。
そうなれば、生活するために必要な、食料、エネルギーなどを持たないわが国の生存を危うくしてしまいます。
したがって、経済的格差を国内問題として議論しているうちは、効果的な対策をうつことができないでしょう。

こういった視点を持って、政策に取り組む政治家が「あまりにも少ない」ことが問題の根源なのです。
国内の「ブン取り合い」に終始する「有権者と政治家」は、この国を沈没させます。

<格差問題は、その固定化が最大の問題>

40年に渡る「社会実験(=共産主義)」が、大失敗に終わったことが示すように、「結果平等」は、社会システムとして成り立ちません。
よって、どのような「モノサシ」で図った格差でも、「格差そのもの」を無くすことは、不可能ですし、また無くすべきでもないと思います。

私達が着目しなければならないことは、格差の「固定化」です。
もし、わが国の貧困層の大部分が、「ある一定の民族」であるならば、それは「人種格差」という格差の固定化であって非常に危険です。
しかし、わが国の現在問題になっている貧困層は、多くの場合フツーの日本人です。
(もちろん、人種や生い立ちなどによる差別が無い、と言っているわけではありません。)

よって、救済を制度に求めるより、教育によって個人の能力を向上させること・・・つまり、個人が社会に対して提供する価値を増大させることが、格差を縮め、国全体の価値創造を拡大するために必要なのです。

<最適配分社会>

共産主義であれ、資本主義であれ、サッカーであれ、野球であれ、
その「システム」が機能するためには、
そのシステムに参加する者(=システムを構成する要素)が、
そのシステムについて十分に理解している必要があります。
そうでなければ、システムは機能しないどころか、システムの弊害ばかりが目立つようになります。
よって、どのようなシステムであれ、そのシステムに関する「教育」が必要です。

私達の国、日本は、
法治国家であり、
民主主義国家であり、
資本主義国家です。
しかし、以上の基本的なシステムについて、残念なことに、義務教育の現場ではしっかり教えていませんし、また、参加している人間(=国民)もまた、積極的に知ろうとしていません。
この点が、本質的に、大きな問題なのです。

「社会に対して提供した価値に応じて経済的な配分を受け取ることができる社会」の実現のために、私達板倉雄一郎事務所は活動しています。
資本主義が、その利点を発揮するために、多くの資本主義への参加者が、資本主義の原理原則を理解する必要があると考え、日本人のフィナンシャルリテラシーの向上という手段によって、この国のハッピーに貢献できればと、真剣に考えています。

資本主義そのものを「悪の根源だ」と主張する方々に共通するのは、
資本主義の原理原則を理解していない、ということです。
共産主義であれ、資本主義であれ、間違いなく「格差」は生まれるのです。
格差は、ある意味、必要です。
格差があるからこそ、人はがんばろうと思うのです。
社会に対して提供できる価値を増大させようと、努力するのです。

<今、格差が問題になる原因>

このところ、格差問題が取り上げられるケースが多くなってきました。
世界中のどこを見ても、(それが共産主義を謡う国であっても)、
格差の無い社会などありませんし、歴史的にもありませんでした。

多くの場合、格差の「モノサシ」は、経済的格差であることを考えると、今、格差問題が取り上げられるのは、「多くの人の価値観が『経済』に偏向している」のが原因だと思います。
金で解決できるのは、金の問題でしかないのに、いつの間にか、私達日本人は、「収入の多い少ない」や、「持てる経済資産の多い少ない」によって、人の価値を図るようになってしまったのだと思います。
人の価値を図る上で、稼ぎに注目したとしても、本来、「どのようにして稼いだのか」が重要であるはずなのに、「いくら持ってるの?」という基準が「大手を振ってあるっている」ことは、とても残念に思います。
もし、「いくら持ってるの」とか、「いくら稼いでいるの」といった経済的モノサシだけで、人が人の価値を判断するようになってしまったら、「金を稼ぐためには何でもあり」といった、堀江や村上のような人間ばかりが生み出され、社会は崩壊してしまいます。
僕が、もっとも懸念する私達の未来がそこにあります。

<価値観は、人それぞれ>

価値観は、人それぞれです。
人の価値は、「いくら稼いだか」によってのみ判断されるべきものではないのです。
しかし、「金」は、生活する上で、極めて大切な要素です。
だからといって、「結果平等」を求めてしまっては、社会は成り立たないのです。
しつこいようですが、
「提供した価値に相関した収入」、
「持てる知識に相関したキャピタルゲイン」、
少なくとも僕は、社会がハッピーであるために、そう思います。

<仕事と作業>

弱者と言われている者に対して、厳しい表現であることは承知していますが、「同じ仕事をしているのに、給与水準が違う」と表現するのは、決まって、給与水準が相対的に低い方々です。
さて、その方々が主張する「同じ仕事」とは、
社会にとって本当に「同じ仕事」なのでしょうか?

飲食店のフロアで働いている方を例に挙げましょう。
食べ終わった皿が、いつまでもテーブルに放置されているのは気持ちの良くありません。
ある、「次の指示を待つ従業員」は、顧客に、「これ片してください」と言われるまで動かずフロアに立っています。
一方、「やるべきことを探そうとする従業員」は、顧客の状態を観察し、「あの客は、食べ終わった皿を片付けて欲しい」と思っているはずだか、「顧客に言われる前に片付けよう」と思い、行動する従業員が居ます。
この両者は、どちらも「フロア勤務」です。
その雇用形態が、「正社員」であれ、「非正社員」であれ、とにかく「提供する価値」においては、明らかに前者は「作業しかしていない」わけで、後者は、「作業に加え仕事をしている」わけです。
この2者が、「同一賃金で良い」と、本当に多くの日本人が思うのでしょうか?
共産主義思考の方、結果平等を求める方、
自分の不幸は、社会が悪いんだ!と思う方、
是非、考えていただきたいと思います。
(ただし、適切な税制による「所得の再配分」を否定しません。)

<悪者探しは意味が無い>

不幸な人が居ることは、社会にとって、間違いなく不幸なことです。
しかし、「一体誰が不幸を生み出したのか?」について掘り下げたところで、「今の改善」にはつながりません。
格差を生み出した原因は、
「劣勢にある当の本人の自己責任」も、間違いなくあるでしょうし、
「劣勢を生み出した社会」もまた、格差の原因でしょう。
社会が悪いのか、制度が悪いのか、当の本人が悪いのか・・・
それを、それぞれの「不幸なケース」を持ち出し、議論したところで、意味がありません。
なぜなら、その不幸なケースの原因は、社会にもあり、制度にもあり、政治にもあり、当の本人の自己責任でもあるのです。
それぞれのケースは、「責任のバランス」は違えど、「制度だけの問題」でもなければ、「社会だけの問題」でもなければ、「本人だけの問題」でも無いのです。
したがって、(ここからが重要です)・・・
不幸な個人は、「自分の中に原因を探し、改めること」が求められ、
政治には、「政治が誰のためにあるのか」をもっと慎重に考えることが求められ、
社会には、「社会を構成する要素として、もっと社会を知る努力」が求められるわけです。

<格差社会が議論される弊害>

格差社会が議論されることによって、「個人がハッピーでない原因を社会の責に帰する傾向」が増してしまう事を、僕は最も恐れます。
「僕が不幸なのは、社会のせいだ! 制度のせいだ!」といってしまったら、その個人は「社会が助けてくれなければ生きてゆけない人なのだ」と、自分自身を認めることになります。
確かに、個々人は、社会の恩恵を受けています。
しかし一方で、社会に価値を提供する個人であるべきです。

One for All and All for One.
これを、忘れてしまっては、社会は成り立たないのです。

今、自分自身が不幸だ、と思う人は、まず自分自身を変えるべきです。
今、社会は、個々のために、手を差し伸べるべきです。
このどちらもが実現できるとき、社会全体がハッピーを享受できるのです。
それ以外のハッピーなど、一時的なものに過ぎません。

2007年1月28日 板倉雄一郎





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