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ITAKURASTYLE「人」

本日、日曜日とあって、午前中のテレビ番組は報道系が目立ちます。

北朝鮮問題と核の議論の是非。
教育基本法改正。
企業を取り巻く雇用の問題など。

それぞれについて、僕の個人的な意見を書いてみたいと思います。

<核の議論の是非>

この議論、議論そのものがどこかおかしい。
「議論をすべきかするべきでないか」という議論は、そもそもおかしい。
だって、すでに議論が始まっていると言うことですから。
そして、
「核の傘の下」に居ながら、他国や自国が「核を持ったらあかん」という議論も、
非常におかしい。
だって、
私たちは(その確からしさはともかく)、
核を間接的に持っているに等しいわけですから。
(↑ 日米同盟による防衛のアウトソーシングの存在。)

「議論をするべきではない」などという結論になるのなら、
それは民主主義ではない。
現実的な議論を続けながら、結果的に、
「持たない合理性」または、「持つ現実性」が導き出されるべきだ。

ただ、「議論をすべきではない」と主張する人には、二種類居ると思う。
一つは、「きれいごと」。
一つは、「せっかくローコストの核の傘があるのだから、黙って居ようぜ」だ。
前者は、単なる平和ボケだと思うし、後者は現実主義だと思うが、
何れにせよ、議論をしない方が良いことなど、この世にないでしょう。
(いや、男女関係は別かも(笑))
議論を通じて、豊かで平和な未来を模索する努力は、
核議論に限らず、あらゆることに必要です。
議論から逃げるべきではありません。
だって、議論を通じて、「人」が未来を創るのですから。


<教育基本法改正>

結論から書けば、「法」をいくらいじったところで、現場に大した変化はない。
教育基本法の文言が変われば、学級崩壊がなくなるのでしょうか?
教育基本法の文言が変われば、いじめはなくなるのでしょうか?
教育基本法の文言が変われば、親が親としての義務を果たすようになるのでしょうか?
ならないでしょ。
大切なのは、現場の「人」なのであって、法律ではないわけです。

私立の名門校であれば、そもそも親が、
「うちの息子(娘)をよろしくお願いします。」と願って預ける関係で、
教師もある程度、生徒に厳しく接することができます。
しかし、「義務」教育における公立学校の場合、親が、
「そんな学校行っても、いい大学に入れるわけじゃないし」とか、
「教師が、自分より格下の大学卒じゃないかよ」とか、そんなノリで、
「仕方なく」通わせることが多いようなので、
教師が生徒に厳しく接すれば、親がしゃしゃり出てきて大問題になる。
このループは、学級崩壊に向かう。

子供にとって、教師に対する尊敬の念がなく、
子供にとって、親は「うざいセンコーを操る都合の良い道具」になっている。
だから、問題は、法律でも、子供でもなく、
親と教師にあるわけだ。
教育基本法で、記述すべき文言は、「親と教師の教育」じゃないのか。
遅刻の多い生徒の「モーニングコール」を依頼する親も、
それを引き受ける教師も居るそうだ。
しつこいようだが、教育すべきは、こいつらが先だ。

だから、具体的提案として、それぞれの学校長に、
ある一定の基準の下、社会経験のある「教員や親の教育ができる者」を
配置すべきだと思います。

ちなみに、「愛国心を教える」とかなんとかいう表現が議論されていますが、
「愛国心」は、教えるのではなく、
「社会の仕組み、構造を理解する過程で、自然と芽生える心」だと思う。
そうでなければ、「愛」なんかじゃない。
愛する「べきだ」と頭ごなしに言われて、本当に愛せるか?
全く馬鹿馬鹿しい。
(以上は、共産党の意見と同じと言うわけでは、ぜんぜんありません。)


<企業を取り巻く雇用の問題>

平均勤続年数が減少しているという。
3年ほどで、転職する人が、5割を超えるという。

それがどうかしましたか?
それ自体がそんなに問題でしょうか?

「何年勤めたか」とか、「何回飯を食ったか」などの数値で、
「人」の何がわかるというのだろうか?

転職動機も様々だ。
「あれが嫌で、これが嫌で、それも嫌だから、転職する」と、
自らが社会に提供できる価値を振り返ることもせず、
自らがハッピーではない原因を、
自分以外に探そうとする馬鹿者の転職もあれば、
「もっと刺激的な仕事がしたい」と前向きに転職する者も居る。
私たちが興味を持つべきことは、「転職率」や「平均勤続年数」ではなく、
「転職の動機」だろう。

何度も書いていることですが、私たちの国には、「人」以外の資源がない。
だから、「人」を育てることなくして存続ができない。
もし、
「人を育てる結果」になるような転職なら、大いに結構。
しかし、面倒にぶち当たるたびに転職していたのでは、「人」は育たない。
ある程度、「我慢」がなければ、人は育たない。
これも、やはり教育にその起源があるのだろう。


その法律は、「人」を育てる上で、現実性があるか否か、
その企業は、「人」を育てることに十分な投資を行っているか否か、
企業にとっても、国家にとっても、「人の教育」以上に大切なことなどない。
なぜなら、企業も、国家も、人によって成り立っているわけだから。

小中の教育現場には、「一定の社会経験を持つ者」があたるべきだと思う。
生徒として、小学校~中学校~高校~大学を過ごした直後に、今度は、
教員として、同じ場所に居るのでは、
社会を知らない者が、社会を知らない者に教育を施すことになる。
そこが問題なのです。


<消費税>

税率を上げるしかないでしょう。
子々孫々が払うであろうカネを、いつまであてにするつもりなのでしょうか。
もちろん一方で、未来への投資にならない税の使い方は、
私たち自身が、厳しく目を光らせる「義務」があります。
税は払いたくない。子供の教育は学校任せ。
その上、親としての責任を果たさずに、学校にイチャモンをつける・・・
これじゃ、学級崩壊では済まず、国家崩壊してしまいますよ。


以上、「政策提案」というより、「議論すべきポイントの提案」。
だって、議論すべきポイントがずっこけていたら、
「朝まで生テレビ」のように、議論のエンターテイメントで終わってしまい、
何も導き出されないでしょうから。

2006年11月12日 板倉雄一郎

PS:
親や教師が、子供の教育について真剣に考えないことも、
大量の国債発行によって、未来のお金を今に持ってきているのも、
すべて、
「問題先送り=今の自分のせこいハッピーのため」に、
未来を犠牲にしていることに他なりません。
これを解決するには、「投資」という概念を学ぶしかないと思うのです。
投資とは、常に、「今と未来のバランス」を考えることですから。
そのバランスをとる基準は、「継続性」にあります。
今の便益を過剰に求めれば、未来が犠牲になり、継続性が得られません。
未来の便益を過剰に求めれば、今が犠牲になり、継続性が得られません。
継続性の期待できない社会では、人は投資を行いません。
したがって、継続性を予見できない社会では、
「教育という投資」についても真剣に考えられないわけです。

教育の責任が制度上、どこにあるのかなんて・・・
もし僕に子供ができたら、そんな議論に付き合う前に、
自分の子供の教育の責任は、僕自身にある、と思いますけどね。





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