板倉雄一郎事務所 Yuichiro ITAKURA OFFICE

企業価値評価・経済・金融の仕組み・株式投資を分かりやすく解説。理解を促進するためのDVDや書籍も取り扱う板倉雄一郎事務所Webサイト

feed  RSS   feed  Atom
ホーム >  エッセイ >  ITAKURASTYLE  > ITAKURASTYLE「思いやりのサンタクロース」

ITAKURASTYLE「思いやりのサンタクロース」

ずいぶん前のことになりますが、ある方(←大変御世話になった方)のご自宅を訪問したときのことです。
クリスマスが近いこともあり、クリスマスプレゼントの話しになりました。
その方のご子息は当時小学5年生。
僕は、その方の「教育方針」など全く意識せずに、そのご子息にサンタクロースの話をしました。

「ところで君は、サンタクロースをいつまで信じていた?」と。

すると、その方は突然慌てた様子で、別の話に切り替えました。
僕は瞬間に、「あっ、まずいこと言ったらしい」と場を読み取りましたが、失敗は消すことが出来ませんでした。
僕の不用意な言葉を受け、その後もご子息は、
「えっ、サンタクロースを信じるって?どういうこと?」と僕に詰め寄りました。
僕は話をそらそうと苦し紛れに適当なことを言っていたように思います。

小学5年生と言うこともあり、
「まさか(髭を生やした独特の衣装の)サンタクロースが実在する」と彼が思っているとは、僕は思っていませんでした。
思い込みによる失敗です。

このことがあってから「思いやり」や、「真実を伝えること」について、考えるようになりました。

「3-1=4」は、明らかな間違いです。
(3は配当前企業価値、1は配当額、4は間違った理解の人の配当による企業価値の増大という誤解。3-1=2です。言うまでもありません。)
また、「(髭を生やした独特の衣装の)サンタクロースが実在する」と思うのも明らかな間違いです。

しかし、前者は、資産運用を目的とした方々のミスリードを防ぐという意味において、その間違いを指摘しない「思いやり」は、全く持って「思いやり」ではありません。
しかし、後者は、親の教育方針などそれぞれの家庭の価値観に依存します。
よって、明らかな間違いであることは、それこそ明らかですが、だからといって「正しいことを教える」という行為が必ずしも「思いやり」ではないケースも考えられます。

僕は、エッセー、セミナー、メディア出演などを通じて、「正しいこと」を伝えようと最大限の努力を払っています。
「個人の価値観に依存しない明らかな間違い」を指摘することは、時として「間違った理解」をしている方を、傷つけてしまうことがあります。

たとえば、「変動金利」で資本レバレッジを効かせ、住宅を購入したばかりの人が「おりおば」を読めば、相当ショックを受けることでしょう。中には「おりおば」をゴミ箱に捨てたり、焼いてしまったりする人も居るかもしれません。
経済的教養を義務教育の中で教えてもらえなかった現在の多くの日本人にとって、僕の言葉は、時として「苦い」と思います。
企業経営の本質とその仕組みを知らず、「勢い」によって一時の成功を掴んだ上場企業経営者にとっても、僕の言葉は時として「苦い」でしょう。

しかし、相手は「大人」ですし、経済活動のピッチに立っているプレーヤーですから、「大人」として、「プレーヤー」として、ルールや仕組みを知る「義務」は必ずあると思います。
一時の「苦さ」を味わってでも、その方やその方の属する組織や社会全体の「将来」のために、僕は正しいことを伝え、間違いを指摘するべきだと思っています。
またそれが知識を持つものの「義務」だとも思っています。

明らかな間違いを見つけた時、「それは間違いです」と懇々と説明することを避け、「そうだねぇ、なるほどねぇ」と納得した振りをしていれば、「その場」を繕うことが出来るでしょう。
その日の「映画鑑賞」(←意味不明な方は「懲りないくん」を御読みください)が唯一の目的であった頃は、その場を繕うことは、得意中の得意でしたし、その目的は多くの場合(およそ8割以上)クロージングすることができました。
しかし、その結果「映画鑑賞」が出来たとしても、僕にとっても、おそらく相手にとっても「将来のための糧」は、何も得られなかったように思います。

今、「懲りたくん」の僕は、ある種「職業病」のごとく、間違いを見つける度にそれを相手に指摘しています。
もちろん、個人の価値観に強く依存する場合と、そうでない場合を区別することにも神経を使っています。
(たとえば自動車を語るとき、「自動車工学」に関する内容では、間違いを指摘しますが、「自動車のスタイリング」については、僕と趣味が違っても、それを受け入れます。)

しかし、「正しい理解」を求めていない方(=正しい理解が如何に自身の将来の役に立つかに気がついていない方)」に対し、間違いを指摘したところで、相手も僕も「気分が悪い」となることは明白です。
時として「その場」の雰囲気は破壊されてしまいます。
しかし、それでも僕は「投資家」として、「その場」の犠牲を払ってでも、将来のリターンを重視します。

思いやりのカタチは、人それぞれです。

投資とは、現在の確かな何かを差し出すことにより、未来の不確かな何かを手に入れるという行為です。
株式投資の場合、現在の確かな「株価」を支払うことにより、その価値としての投資家に帰属するキャッシュフローを得るという行為です。
消費とされる投資活動の場合、現在の確かな「価格」を支払うことにより、その商品価値を手に入れるという行為です。
いずれの場合も、差し出すモノは「確かな今」であり、その対価は「不確かな将来」です。
何かを得るためには、何かを失うのです。
何かを失ってこそ、初めて何かを手に入れることが出来るのです。

善人ぶるつもりはありませんが、「業」として、「その場」のメリットを得たいがために、将来の価値破壊を受け入れることは、おそらくこれから先も僕にとって不可能でしょう。
そういう人間も、今の日本には必要だと思うからです。

さて、サンタクロースの話に戻ります。
「事実」を隠し、「非現実的な夢」をいつまでも信じさせる行為に、僕は否定的です。
「子供に夢を持たせてあげたい」という想いから、サンタクロースを信じさせているのだとしたら、その前提として、「現実社会には夢がない」と、その親が思い込んでいることが考えられます。
親の生活そのものに「現実的な夢」がないからではないでしょうか。
僕は、この考えに賛成できません。

醜いことも、辛いことも、「一時的に」夢や希望を失ってしまうようなことも含め、現実を現実として目をそらさず直視していたら、本当に「夢」は描けなくなるものでしょうか。
「夢」は、現実を知らないものだけに許される妄想なのでしょうか。
僕は、これまでの人生の中でたくさんの醜い現実を見て、経験して来ました。
しかし、現実を知れば知るほど、僕自身の夢は膨らみ、努力するほどに、その現実性は高まっていると感じます。

少なくとも僕は、
すべての現実を受け入れても、その上に「夢」を描く事が出来る
と、思っています。
そのとき初めて、「妄想」が実現可能な「夢」として価値が生まれるのだと思います。

夢を壊すのは、現実から目を背けてきた自分。
夢を実現させるのは、現実を受け入れた自分。

現実の中に、いくらでも夢は描けるものです。
なぜなら、未来は、現在の我々が作り出すものだからです。

サンタクロースをいつまでも自分の子供に信じさせている親は、子供の夢を壊したくないというイイワケによって、実は自分自身が現実から逃れていたいだけではないか、と思います。

2006年3月28日 板倉雄一郎

PS:
車が来てからというもの、僕は以前のようにかなり活動的になりました!

昨日も、朝から順に・・・
04:00 起床~ワンコの散歩
05:00 200通以上のメールの処理
06:00 朝食~エッセーの執筆
08:00 新聞やネットなどから情報の取得
09:00 水泳とサウナとマッサージのためにお台場はホテル日航東京「スパ然」
13:00 昼食
14:00 自宅に戻り車の整備関係の用事
15:00 新刊本などの執筆
18:00 夕食~ワンコの散歩~ワンコの(月に一度の)シャンプー
19:00 メール処理
21:00 トランス系ミュージシャンCT嬢と御食事で西麻布は「サイタブリア」
26:00 CT嬢を御行儀良く送り,、自宅に帰り就寝
以上、こんな感じの「懲りたくん」でした。

春のせいもあるでしょう。
この1年間のような「パソコンに張り付いた生活」から脱し、それでも仕事の効率と品質は落とすことなく、かつストレスをためずに、うまくやれそうな感じがします。
そもそも「パソコンに張り付いた生活」は、継続不能ですし、継続不能なことほど価値が無いモノもありません。
「その場」の利益を得るために、継続不能なことを行うのでは、「投資家」として失格です。
「今と未来のバランス」は、投資家にとっても、経営者にとっても、そしてすべての人間にとって、最も重要なテーマです。
なぜなら、人生の最も貴重な資源は「時間」だからです。





エッセイカテゴリ

ITAKURASTYLEインデックス