例えば、あるDVDソフトに撮影される女優を考えてみてください。
そのソフトは、AVでもプロモーション・ビデオでも何でも構いません。女優については、皆さんの好みの方でも、そうでない方でもかまいません。もちろん男優でも構いません。その女優は、彼女自身が動画映像として記録され、後に商業的に利用されることをもちろん知っています。
と言うことは、彼女は、「未来に自分の映像を見る人」を想定しながら、カメラの前で振る舞うことになります。
つまり、彼女は、未来の誰かの影響を撮影時点で受けているということになります。 また、その映像を後に見る人(=以下:彼)を考えてみましょう。彼は、その映像を見るとき、何の疑いなく特に意識することなく、「過去の事象を今観ている」と認識しているはずです。
(厳密には、彼の見ているのは、現在の電磁信号に他ならずそれ自体、過去に起こったことだと証明する手立ては、実は無いのですが)
このとき彼は、過去の女優の映像に、「自身が全く関与してない」と思っているわけです。
しかし、本当にそうでしょうか?
先ほども書いたように、女優は、彼(のような存在)を意識しながら、カメラに撮られているわけであり、彼(のような存在)を意識しながら、カメラに撮られた女優を彼は観ているわけです。
我々は、未来と過去を「タイムマシーン」に乗って常に動き回っていると思うのです。
このところ、読者からのピンポイントの批判を少しだけ頂きます。その中で、細野真宏氏の「投資に関する表現」を僕が批判していることに対する読者からの批判について書いてみましょう。何人かの読者(といっても読者全体から頂くメールに占める割合は非常に小さいです)から、「論拠が不明確だ」とか、「科学的ではない」とか(笑)、そんな批判を受けます。
(僕は、明確な論拠を示している。と思っています。)
例えば、自分の子供を預ける学校の先生が、「1+1=3ですよ」と教えていたら、あなたならどうしますか?
僕なら、自分の子供だけではなく、その先生に教わる可能性のある子供やその保護者に対し、「あの先生は間違ったことを教えています。注意したほうがよいです。」と、躊躇なく申し上げます。
(というか自分の子供には、そんなインチキに騙されないように教育したいと思います。事実、当事務所のセミナー卒業生は、彼の間違いにスグ気付いています)
少なくとも僕にとって彼の間違いは、その程度のことです。
なぁ~んて書いちゃうと、「お前は、自分だけが頭が良いと思っているのか!」とか、「お前は、自分だけが正しいと思っているのか!」とか言われます。しかし、チョットだけファイナンスをかじっただけの人でも「配当=株価上昇」なんてのが間違っていることなんてすぐに理解できます。
と、書くと今度は、「知ってるからって偉そうにするな!」とか、「お前は殿様か!」とか、言われるわけです。しかし、知っている人間が、知らない人に注意するのは、あたりまえのことではないでしょうか?教えている内容が間違っているということは、その間違いに気が付かない方々をミスリードしてしまうということです。
こと「経済的取引」となれば、汗水たらして働いた価値を一瞬にして失ってしまう可能性があるわけです。その可能性が高い場合(=彼の本はベストセラーの一つです)、僕は、可能な限り大きな声で「そいつは間違っている。鵜呑みにしてはいけない。」と、訴えたいのです。
僕や当事務所が持つ哲学は、常々書いているように、
「我々が暮らす環境の仕組みに関する知識をより多くの人に伝えることにより、社会に貢献する」です。
この考えと上記にある僕の行動の間には、少なくとも僕の知識と価値観の中では、整合性があるのです。
彼の間違いに気が付く程度の知識をお持ちの方の多くが、僕のように「大きな声」でそれを指摘していないから、僕の言動が目に付くだけなのです。
分かっている人は、売れている本、ファンの多い作家への批判が、批判をする者にとって、(一時的には)得策ではないと知っているから、分かっている人ほど、彼に対して批判しないのです。
僕は、そのような方々のように「自分だけがよければいいや」と、心から思うことは出来ないのです。心から思わないことを続ければ、後々自分が傷つくのを知っているからです。
僕がもし、「知ってるけど教えてやんないもん!」などと言ったり行動したりしているなら、批判されて当然だと思います。
しかし僕は、そんなことしていないと思います。むしろ全然逆のことをしていると思うのです。見えてしまうから仕方が無いのです。見えない方には、分からないことなのです。僕が伝える(少なくとも)ファイナンスに関することは、僕の発明でも、発見でもありません。極めてオーソドックスで、当たり前の既知の事実に過ぎないのです。
話し戻ります・・・
ブログを書き始めた頃(2004年6月)は、楽しかった。
誰か一人を想定して、その方に語りかけるように書けばそれでよかった。想定する誰かに対する「LOVE」があれば、自然と文章にもLOVEが表れていた。けれども今は、こうして文章を書いているとき、一人どころか、数十人もの「未来の読者」からの影響を受けながら書いています。
もし、僕自身が、文章を書き続けるモチベーションを環境の変化に合わせて変化させることが出来なければ、もう続かないだろうなと、最近思います。
一方で、先の女優が、「未来の視聴者を意識せずに振る舞った映像」と「未来の視聴者を意識しながら振る舞った映像」ならば、少なくとも僕は、後者のほうが好きだ。作品としての価値が高いと感じます。
少し大げさかもしれませんが、
1、くだらない批判に僕自身が慣れ、そんなメールをTrashする。
2、くだらない批判にも今までどおりストレスを抱えながら時間を使い対応する。
3、心ある読者からの賞賛だけに耳を傾ける。
4、どんな批判にも、LOVEで迫る。
5、自分の知識を自分だけの利益のために使い、現在の活動は止める。
などとオプションが浮かびますが1と2だけは、絶対にしたくないと思います。
で、最後の結論は、「相手にされているだけマシ」ってことになるんですが。(笑)
以上、独り言にお付き合い頂きありがとうございました。
以上の本文の主旨と直接関係ありませんが、
参考エッセイ KISS 第72号「タイムマシンパラドクス」も併せてお読みください。
2006年2月16日 板倉雄一郎
PS:
昨年春頃の僕による、堀江君批判についても、
今日現在の僕による、いくつかの他人批判についても、
批判そのものが好きでやっているわけではありません。
出来れば、いつも美しく和む風景を眺めて心穏やかに暮らしていたいのです。
しかし、「穏やかな暮らし」という未来は、現在の我々が創るのだと信じています。
どんなに他者との知識が開こうとも、それが出来る人間は、それを実行し、その過程で得られた知識や経験を、正しく社会にフィードバックする義務があると思うのです。
それが言論をする者の最大の責務だと思っています。