このところ、欲しいと思う企業の株価が(自分にとってのフェアバリューより)割高の場合が多く、且つ、この先数ヶ月間での株価下落の可能性が高いと(僕は)認識しているので、どの株式にも手が出ない状態が続いています。
それでもインフレを前提にすれば、資産運用は「しなければそれだけで損をする」ことになりますから、何らかの運用をしたくなるわけです。
とはいえ、(僕の使う時間と情報の限りでは)ほとんど博打としか思えないオプション取引によって資産を過大なリスクにさらす気にもなれず、短期相場での利ざや稼ぎに時間を使うのももったいないし(そもそも実損する可能性も高いし)、長期的にはその価格が上昇傾向だとしても短期では投機資金の動きによるボラティリティーの高いコモディティーに投資する気にもなれず、結局何もできないわけです。
こんな迷いのあるときは、やはりアービトラージがいいです。
アービトラージは、それを行うことに社会にとっての価値ががあるのか?
微々たる価値提供ですが、価値があると思います。なぜなら、誰かが裁定余地を見つけ、裁定取引を行わなければ、市場が「歪(いびつ)」な状態になってしまいますから。
しかし、アービトラージを行うことによる価値提供は、やはり微々たるものです。アービトラージによる利益は、「だれもが裁定余地を放置しない」ことによって、裁定余地の発生を認知したときには、すでに裁定が進んでいるわけで、当然ながら利幅は限られます。価値提供が少ないことは、やはり利益も少ないというわけです。
しかしアービトラージの利点は、「利幅は薄いがリスクも小さい」という点です。ケースによりますが、ほとんどリスクの無い裁定余地も、無いわけでありません。
(断っておきますが、いわゆるプロの場合を除き、そんなことをするぐらいなら、その時間を本来の「労働」に費やしたほうが、その個人としても、社会にとっても価値があることは言うまでもありません。)
アービトラージには、様々な方法があります。
裁定余地とは、「同じ経済価値の取引価格に、(取引場所や期限の違いなどによって)違いが生じること」ですし、
裁定取引とは、「(同じ価値だが価格が)高いほうを売って、安いほうを買い、価格が(裁定されることによって)均衡したときに反対売買をすることによって利益を得る手法」です。
この手法の場合、ポジションを持った後に、高い方がなお高くなっても安くなっても、安い方がなお安くなっても高くなっても、裁定さえされれば、確実に利益を得ることができます。
たとえば・・・
NYSEと東証の同じ銘柄の株価にも裁定余地が発生します。
(ただし、為替や取引時間に若干のズレがあるので、完璧な裁定余地にはなりません)
上場企業同士のM&Aによる統合比率と、両者の株価の間にも裁定余地が発生します。
何らかのディスカウント価格で放出される株式と、市場価格の間にも裁定余地が発生します。
先物と現物の間にも裁定余地が発生します。
(ただし、限月が遠い場合には、明らかな裁定余地とは言えず、また限月間近の場合、そもそも裁定が働くので裁定余地はほとんどありません。)
同じ発行主体の表面利率の違う(期限が微妙に違う)債券(たとえば国債)も、利回りが同等になるための裁定余地が発生します。
裁定余地を拡大解釈すれば、「一株あたりの価値」と、「株価」の間には、常に裁定余地があります。
その他書き出したらきりが無いぐらい裁定余地はこの世にたくさんあります。
これらの裁定余地を、誰かが裁定取引を行うことによって、「穴埋め」しなければ市場の価値が失われるわけです。逆に言えば、誰かが必ず裁定余地を見つけて裁定取引を行うことによって、市場の価値が保障されているともいえると思います。
しかし当然といえば当然ですが、ローリスク・ローリターンであることは間違いありません。
でも、「他にやるべきことが無い場合には」、何もしないよりはマシですね。
裁定取引を実際に行うかどうかは別として、世の中の「裁定余地」を探してみるのは面白いし、勉強になると思います。
2008年5月26日 板倉雄一郎
PS:
以上、過去のエッセイと重なる部分が多い内容ですが、このところ「公にできない情報や活動」が多く、エッセイネタとしては、品切れ状態です。読者の皆様からのエッセイ内容に関するリクエストなどいただければ幸いです。
よろしくお願いいたします。